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~語るべきことなど何もないのに~
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テレビで「リーガルハイSP」

huluで「外事警察」

映画で「寄生獣」


と最近,私の中でなぜか古沢良太ブームが来ている。




これらは一見相容れないが,内容の核心はどれも「臭い物に蓋」の蓋をこじ開ける感じで共通している。


3本だけなのでよくは知らないが,それが古沢良太という脚本家の芸風なのだろう。





本来なら「外事警察」の素晴らしさを5分ごとに解説を加えたいくらいだが,残念ながらそこまでのヒマと体力がない。とりあえず,今までテレビドラマに感じてきた大なり小なりの不満をほぼ解消してその上を行く,そういう作品だというにとどめる。







そして「寄生獣」。

とくに原作ファンではないが,10巻分を2時間×2本(次回は来春公開)でまとめようとするという点で非常によくできていると思う。現時点では。

主役のセンスは良いし,東出も演技の拙さが逆に良い方向に作用している。



それに何より,特撮である。


「いかにも特撮感」がなく,自然。技術にすべて必然性を感じる。


マンガやアニメでなければ表現できない,なんて言い訳はもはや通用しなくなった。

「寄生獣」を観て,そういう時代になったのだなと感動してしまった。



この勢いで「神様のいうとおり」も観ようかと思ってます。



以上です。






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宮崎駿が「風立ちぬ」のインタビューにおいて,作品名こそ明らかにしなかったものの不快感を示していたのを読み,宮崎信者の私としては,「永遠の0」にマイナスの印象から入ることは避けられなかった。











しかしその後,井筒監督が酷評したとのネット記事をきっかけに,一気に名作の推定が働いた。


観た結果,私の直観は的中。むしろ想定した以上に名作だった。


太平洋戦争で何があったか,日本とはどういう国なのかを知るうえで「プライド 運命の瞬間」や「終戦のエンペラー」と並ぶ上質なテキストと言っていい。









宮崎はゴリゴリの反戦平和主義者である反面,当時の兵器や戦記物にも造詣が深い人物であるから,二重の意味で安易なゼロ戦礼賛ストーリーが許せなかったのだろう。




しかし安易な礼賛であるかどうかはあくまで観たうえで個人個人が感じることにすぎない。私が見る限りでは,とてもそうは思えなかったが。




宮崎は映画はおろか原作小説も手に取っていないというのであるから,まあ,歳を取ればそういう感じになってしまうのも理解できないではない。

邪推だが,ゼロ戦について自分以上に語れる者はいないという自負があってのことではないだろうか。







対して井筒は,声のデカさで映画「評論家」として有名になっただけで,映画「監督」として他人の作品を酷評できるような地位にいたことはない,はず。

なんというか,宮崎が本物の左翼なら,井筒はアーティスト気取りのエセ左翼に見える。


サザンの感動的な歌で戦争賛美しましょう的右寄り映画に噛みつく俺ってカッコ良くない?みたいな。





こういう薄っぺらいスタンスの人が吐く言葉にギャランティーが発生することが不思議である。
嫉妬を超えて純粋に羨ましいと思う。まあ,薄っぺらいからこそ世間に浸透しやすいってことなのでしょうが。





なんて書いてると滅茶苦茶井筒を嫌っているように見えるかもしれませんが,べつにそういうわけでもなく。嫌ってたらこんな字数じゃ収まらないし。

むしろ,井筒が批判してると聞かなければ映画を観に行こうとは思わなかったはずなので,そこは本当に感謝してもしきれないくらい。


なんなら初めからそういう商法に引っかかった可能性もあるけどw











少しだけ作品の話をしよう。







観れば誰でもわかることなので詳しくは書かないが,


「永遠の0」はゼロ戦を礼賛し,戦争を賛美している映画なのか?


という問いを立てるとすれば,答えはNOである。





ここで「とすれば」と仮定的に書いたのはつまり,その問いはこの作品を語る上ではあまりストライクではないからである。




無理矢理にそのような問いを立ててYES,よってけしからん作品だと批判するのは,



自前の軍隊を持つことは戦争につながる

武器を持たなければ戦争がなくなる

戦争に加わった奴みんな悪

反権力こそ正義


と雰囲気でしかモノを語れない輩のすること。


こういう輩の言論が幅を利かせる時代は徐々に終わりつつある。




と同時に,あの戦争は何だったのか自分の体験として語れる人達もいなくなりつつある。
「永遠の0」の設定(現代に生きる主人公が,特攻隊員だった祖父がどういう人物であったかを知ろうとする)は,まさにそういう危機感を前提に作られたことの表れとみえる。



戦争についての肯定否定はさておき,下の世代に昔何があったのかを伝える責任。それは「風立ちぬ」を作った宮崎駿にも感じたことである。






実際に戦地で銃弾の下をくぐった人からすればぬるく見えるだろうが,戦争を知らない世代の人間が「あの映画はリアルじゃない」などと批判することの滑稽さといったら。そんなことは表現する現場の人間のほうがよっぽどわきまえているはず。


それでもなお風化させてはならない時代の記憶があると感じた人いて,その人達の才能,努力のおかげで小説,映画ができ,我々がその何かしらを感じることができた。


長い間,あの戦争について肯定はおろか,否定的でないトーンですら語ることは難しかった。今もまだ簡単とは言えない。そんな中で生まれた「永遠の0」は,とても幸福な作品だと思う。























今どき中学生ですらやらないような,すごく恥ずかしい問題提起をしてみた。











日本人は空気に流されやすいから?

ジブリ観ておけば間違いないっていうニワカが多いから?

宣伝がうまいから?






それらも無関係ではないかもしれないが,やはりそれなりの理由がちゃんとある。














宮崎駿が映画「風立ちぬ」の大震災の絵コンテを描き終えたのは,なんと東日本大震災の前日だったという。






そのときのことを振り返って宮崎は,



「時代に追い抜かれたと感じた」



とインタビューで語っている。





たまたまそうなったとは思えない,時代とのリンクっぷり。

まさに巨匠ならではの発言である。














その時代に大衆が求めているものが何なのか,その時代の少し先にあるものを提示しなければならない。

それが表現者としてあるべき姿なのだとか。




作風からして,時代に流されず普遍的な美意識に重点を置いているとイメージしていた私にとっては,少し意外な発言だった(もちろん,普遍性があることにも違いはないのだけど。)














その「時代の少し先にあるもの」が何なのかはわからないが,宮崎がいうところの「ファンタジー」が,それに該当すると考えていいだろう。ただの空想,夢物語とは違う。




もう何年も前から「ファンタジーを作るのが難しい時代になった」と口癖のように語っていたが,そういうことだったのかと改めて思う。












宮崎は,スマホだのツイッターだのインターネット文化にはほとんど触れないらしい。


およそ「情報」というものは,自分の肌で直接触れて得るべきだと。

子供たちには,自分の作った映画を見るよりも,外に出て草や木に直に触れて欲しいと言う。






宮崎作品はすべて,そういう泥臭い男が自分の感覚だけを頼りに,その時代に生きる人たちが何を求めているのか,死にもの狂いで妄想をした結果できたものである。















インターネットを使えば簡単に多くの情報が得られるが,そのインターネットの先にいる人がどんな人なのかまではわからない。当たり前である。






しかし,その先にいる人がどんな人で,どんなことを欲しているのかが想像できるのなら,そりゃあ,映画がヒットするのも当然な気はしないだろうか。





私は,宮崎駿のすごさの理由が1つそこにあると思う。










この平成の時代,大衆の意識の居場所,リアリティの中心がインターネットにあるのだとしたら,スマホなりツイッターと向き合うことは避けられないと思う。


だからミュージシャンがツイッターで要らないことをつぶやいたりするのも,しょうがないのかもしれない。






しかし宮崎駿の生き様をみると,やっぱり本物はこうあるべきでないか?と思わざるを得ない。



















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絶対誰も気づかないと思いますがdeathは不吉なので改名。
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