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~語るべきことなど何もないのに~
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広島市の女性が、妊娠後の異動先で管理職を解かれたのは男女雇用機会均等法に違反するとして、勤めていた病院側に損害賠償を求めた事案。いわゆるマタハラ裁判。



最高裁は,


①妊娠した女性が自由な意思に基づいて同意するか、②円滑な業務運営や人員の適正配置の観点から、やむを得ない場合を除き、降格などの措置は均等法違反になる。

としたうえで,

今回の降格は本人の意向に反するものだった(①)と認定。

特段の事情の有無(②)について、審理を尽くすよう高裁に求めた。

この流れで高裁が「特段の事情」を認めることはほぼないので,原告の完全勝利といっていい。




ここ数年の最高裁が権利保護に積極的な態度を取ってきたことに加え,

男女雇用機会均等法の素直な解釈からすれば,原則違法とした最高裁の判断は当然のこととも思える。




しかしこの当然のことが実現されてこなかった歴史を踏まえると,なかなか画期的な判決といってもよいのではないかと思う。








この判決を受けてあの田母神氏が,



女性は子供を生むときは長期にわたり会社を休むのです。
その可能性のある人と継続的に働いてくれる男を同じ労働条件にせよというのは無理です。
また妊娠で軽い業務しか出来なくなった女性を降格したと言って裁判に訴えるような女性はどんな女性か。
「貴女を愛してくれる男性はいますか」と聞きたい。




とツイートしてちょっと話題になったり。

他のつぶやきも合わせて見れば,氏が女性を蔑視しているわけではないのはわかるけど。

こんな数行で語れるほど簡単なテーマではないのですよ!「平等」ってやつは。








本件の事実関係は,記事ベースでごくごく簡潔に要約したものだと





原告の女性は、病院の副主任として勤務し、妊娠すると、負担の軽い職場への異動を希望した。ところが、異動先で副主任を解かれ、育児休業後の部署でも副主任に復帰できなかった。




となっている。

これだけであれば,病院の処遇が著しく不合理とも思えない。

にもかかわらず,女性の権利を過大に重視し,経営者の権利を軽視した判断なのではないか。経営者だって苦労してんだぞと。

田母神氏は,最高裁はバランスを欠いていると言いたいのかもしれない。

もし本件の結論だけに限ってよいならば,私もそう思わないではない。







しかし実際は,本件よりひどいマタハラ事例が横行,慣習化しているわけで。

そして,そのほとんどは弁護士立てて会社とケンカなどはできず,泣き寝入りする状況(私も自分のいる会社でそれに近い事例を見ている。)。





最高裁はこういう状況を踏まえ,本件だけにとどまらない一般論を明確に示すことで,マタハラ横行に歯止めをかける意図があったと思われる。





もしマタハラで訴えられたら,裁判で負けるかもしれない。



経営者側にそう思わせることで,事前に一定の抑止力を働かせる。

それだけでも,不当なマタハラを防ぐ可能性は多少高まる。



なおかつ,女性労働者と経営者の権利のバランスは,


①妊娠した女性の自由な意思に基づく同意の有無
②円滑な業務運営や人員の適正配置


で図られる。



何が「平等」かなんてどれだけ議論したって絶対に結論は出ないんだから,まずは当事者が合意の上でやってください。


合意してなかったなら,経営者の利益と衡量して決めましょうよという二段構え。



なかなか渋い,さすが最高裁。



少なくとも,泣き寝入りしてきた人たちを「女性の鏡」のようにおだててやりすごす田母神氏よりは,深く物事を考えてらっしゃると思われます。




この判決を受けて,経営者としては①の同意を得ることで対処していくと予想されるので,今後は同意が「本当に自由なのか?」が焦点になっていくことでしょう。素人考えですが。














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ある少年兵が戦闘の後,敵の軍に捕らえられたときの話。






敵の司令官が少年兵に優しく諭す。



「世界を悪い方向に向かわせているのは,君が所属していた軍隊の方だ。

我々は悪と戦っている。君も力を貸してくれないか?」





それに対し,「たとえ悪と戦うのでも人殺しは絶対良くないんだ!」と感情を爆発させる少年兵。





すると傍にいた士官が,少年兵をいきなり殴り飛ばす。



「ならばさっき私の部下を殺したお前も同罪だ!」



ハッとする少年兵。


そして司令官は士官にもこう諭す。


「彼は自分が何をしたのかまだわかっていないのだから許してやれ」







というのがガンダムUC第2巻のとあるくだり。

主人公バナージが戦争の矛盾をダイレクトに突き付けられる場面。
詳細は覚えていないが大体こんな流れ。







私がなかなか深いと思ったのは,アンジェロ大尉のバナージへの暴力に加担することなく,また逆に諌めようともしなかったフル・フロンタルの立ち振る舞いである。





連邦軍によるスペースノイドへの不当な支配に対する怒りはアンジェロに任せつつ,あくまで大人として冷静に振る舞う。

でもそれ以上ヘンなこと言うといくら子供でもうちのアンジェロ黙ってませんよ?という空気も出しつつ。

自ら手を汚すことなく暴力をちらつかせる点でズルいといえばズルいが,あんまり大人をナメると容赦しないぞという。

その辺がこう,子供の感情論とモロには付き合わないという,大人の渋さを感じさせるわけですよ。













なんでこんな話するかっていうと,例の在特会ですね。


私は,例えば,


天皇制反対とか


天皇だって我々と同じ人間であって平等なんだとか


憲法の教科書を斜め読みして平面的に語る奴がどうも気に入らないのだけど,




他方で,ヘイトスピーチみたいな暴力的な手段,言論でそういう方たちを叩くのもどうなのかな~?なんて思ってたわけです。




でも在特会って名前は聞くもののどういう人が何やってるのかほとんど知らなかったんですよね。

で今回,橋下市長との罵り合いがニュースになったので,ようつべで初めてどんな様子か見ましたと。





桜井誠会長の主張をごく簡単にまとめると,


あっちの方から慰安婦だなんだと日本国民に対してヘイトスピーチをしたんだから,

こっちもヘイトスピーチして何が悪いんだと。やられたらやり返すんだと。


もっとも,ヘイトスピーチの規制は大賛成。

なぜなら,あっちの方のヘイトスピーチを取り締まってくれるんでしょ?

こっちは最初から刑務所覚悟でやってんですよっていう。






やられたらやり返すってのはやはり大人ではないなあと最初は思ったわけですが,

さらに桜井氏はこう言うのです。





世の中は理性じゃ変えられない。感情が変えるんだ。









これは正直,太いなと思ってしまいました。



確かにそうなんだよなあ・・・。


てかこの人,どっちかといえば右翼だろうにw





人に危害を加えるかどうかはさておき,

自分が殺される,捕まる,処罰される,それでもいい,

そういう覚悟を持った人がいないと世の中が変わらないとも思う。




桜井氏を世の中を変える人だと英雄視するつもりはないけど,

しかし世の中を変えるのはそういうタイプの人であることは確かだと思う。


「世の中を変える」を「人の心を動かす」に変換してみるとわかりやすくなるか?

感情的な人,中身が子供な人が人の心を動かし,世の中に何がしかの影響を与えていく。


べつに政治家なり活動家とかに限らない。アーティストでもいい。


ここで久しぶりにいつもの話になるが,最近の音楽がつまらないのはやっぱり感情的で中身が子供な人がいない社会だからってことになる。

そこはもう,時代のせいだと諦めるしかない。音楽はさておき。








桜井氏と橋下氏の罵り合いは,両者とも確かに感情的で子供だと思う。


でもそれを根拠なく上から目線で大人ぶって,「どっちもどっちですね」とか論評しちゃう自分って何かやれてんの?って話ですよ。やれてないですから。

単に何もやれない自分を「大人だから」と正当化するのってなんかこう,

男としてチンポついてんの?っていうね。












・・・と,思わなくもないwww

そこで最初の話ですが。


私は,桜井氏はアンジェロで良いと思うのです。



日本国としては某国に向かって,


ヘイトスピーチ規制しようかな?
どうしようかな?
いかがしましょうかねえ?
やっぱり規制した方がよいですよねえ?



みたいな。

ここで大人の二枚舌を使えるしたたかさが安倍さんにあれば・・・。

そんな風に思ったわけです。


相手が子供だからといって取り合わないのが大人の対応とか日本人の美徳とかいっていつまでごまかせるのか。もう,時期が来てる気はしますよね。

















































先日,(微妙な表現になるが)仕事上の部下に当たる人と昼飯を食べていたときの話。


元々大声な人なのだが,そのときも集団的自衛権について話を始めて困ってしまった。
なんとか隣にあまり聞こえない方向で収めたいなあ,と思っていたら,それを見透かされたのか,




「意見違ってもいいから議論をしたほうが世の中がいい方向に行くと思うんですよねえ。」





みたいなことを言い出した。

集団的自衛権云々なんてどっちでもよかったが,

「議論をすれば世の中が良い方向に行く」というのは,なかなかの思い違いだと思った。

しかしそれを論破する言葉も気力もなく,さっさと飯が食いたかったので適当に受け流した。






簡単に言ってしまえば,

良い意見を持ったAさんとそうでもない意見を持ったBさんが議論をすれば,



1.Aさんの意見がBさんにも共有される。


2.AプラスBを二分の一にした意見ができあがる。


3.AさんとBさんの意見がそのまま残る。



3の場合,両者ともにお互いの意見を尊重するか,

それとも分かり合うこともなく分裂する。




1や3によって,新しい意見が生まれることはない。

2が新しい意見であるとして,その妥協案が果たして今よりも「より良い」方向を指し示すといえるのか。







議論のメリットはせいぜい,AさんがBさんも説得できるような言葉を駆使しなければならない,と気づくきっかけになるにすぎない。


ノーベル物理学賞を獲るというなら話は別かもしれないが,思想だの哲学だの空想の分野ではまあ,意味がない。


思想の自由市場とかそういうキレイごとは,隣国のデモの中でこそ主張すべきであろう。






議論好きな人というのは大抵,議論ができる自分に酔っているだけの人が多い。



集団的自衛権をイエス・ノー主張する「動機」がちゃんとしているなら是非聞いてみたいと思うが,単なる自己満足だってんならガールズバーで語るかもしくはこうやってブログでも書いて(笑



自分のチャンネルにはまってくる意見でなければ反応すらせず,自分が言いたいことを言うだけ,というのではまるで最近新聞を読み始めた高校生。


実際,私はその人をそういう目で見ているので,あえて昼飯休憩を割いて議論をする気にはなれなかった。










とまあ,ここまで書いといてなんですが,議論は大事だと思いますよ。

でも,議論をしない人がダメだ,議論をしようとしない日本人の風潮がダメだ,というのは成り立たない。




言葉で説明することができる,合理的なものだけに美や善があって,


言葉で説明することが難しい,不合理なものにはそれらがない。




と思い込んでいる人が多いように思うが,実際はむしろ逆ではないか?


確信ではないけど。




最近,こうやってブログで論理的な文章を書けなくなる,書こうとすら思わなくなってきているのは,私がだんだん,言葉で説明できない,不合理なものに魅力を感じてきているからではないかと思う。

歳を取るとはこういうことなのかもしれない。











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絶対誰も気づかないと思いますがdeathは不吉なので改名。
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