~語るべきことなど何もないのに~
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あなた(X)は,コンビニでアルバイトをしているとしよう。
ある日自分の後輩Aが,「Xさん,自分の知り合いがタバコを吸いたいので売ってください」というので,「なんだそんなこと全然いいよ」と返した。
すると後日,Aの友人と名乗るBが来店したので,通常の客と同じようにタバコを売った。
腕に入れ墨がありいかにも悪そうな見た目ではあったが,態度はいたって紳士。
ところがそれから3年後,Bがいわゆる反社会的勢力の人間であることが判明した。なんでも,5年前から特殊詐欺グループに属し,高齢者から多額の現金をだまし取っていたのだという。
ここで問題。
あなたは,誰に対して,何について,謝らなければならないか。
この例題と吉本芸人を中心とする闇営業問題は,事情が異なる。
会社を通さなかったという問題。ひいては,脱税につながるとの指摘もある。
もう一つは,反社会的勢力と関わったそのこと自体が問題。ひいては,被害者から巻き上げたであろう金銭をギャラとして受け取っている。
さらには,お金を受け取っていないと公にウソをついた問題。もっとも,その嘘を信じた者はほとんどいなかった。
受け取ったとしても相手方が反社と知らなかったのであれば,まあしょうがないとなる。
というか,新郎新婦が雨上がりのファンだというから歌ったのに,数年後には「自分たちは反社です。宮迫は自分たちのパーティで歌ってましたよ!」って情報を売り,週刊誌はその情報を買う。要するにマッチポンプ。
芸能人はギャラを貰っているけど,週刊誌はコンプライアンス意識が高いから対価を支払うはずはないらしい。
まあ,そりゃそうでしょう。
反社から直接動画を提供してもらうのではなく,反社ではない人を介在させれば反社との付き合いはないことになりますから。
宮迫たちが悪くないとは言わない。しかし,もっと悪い人たちがいる。
そのことは考えず,歪んだ嫉妬心と日ごろのうっ憤を正論風にコーティングして芸能人を叩いて喜ぶ。そうやって我々愚民は,情報の発信源に踊らされているんですよ。
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川崎・男児投げ落とし事件
https://matome.naver.jp/odai/2140488260514087701
川崎中一殺人事件
https://matome.naver.jp/odai/2142527930984013501
川崎簡易宿泊所火災
https://matome.naver.jp/odai/2143191147900485801
川崎老人ホーム連続殺人事件
https://matomedane.jp/page/5717
そして先週の川崎登戸殺傷事件。
私は登戸に住んで15年ほどになるが,ここ最近,川崎では毎年のように世間を大きく騒がせる事件が起こっている。
というか,上の事件はいずれも,正確には「川崎市の多摩川の近く」である。
川崎市の形と多摩川との位置関係からして当たり前かもしれないが,それを考慮してもなお近い。偶然であるにせよ,そういうことがたまにあってもおかしくはない地域だなあと感じる。にもかかわらず,付近住民のセキュリティ意識は決して高くないようにみえるのだが,気のせいだろうか。
今回の事件以降,犯人の家庭環境に焦点を当てた報道が目に付く。「引きこもりだった」とは言わず,「引きこもり状態にあった」という言葉使いをしているのは,引きこもりの人イコール犯罪予備軍であるかのようなレッテル貼りをしないためである。それでも,引きこもりという属性に絡めた報道自体がレッテル貼りを助長するから,その言葉を使うことも避けるべきとの論調すらある。
そして,立川志らくが「1人で死ね」とコメントすると,「そういう境遇にある人」を刺激して新たな犯罪が生まれる可能性があるから控えるべきだとか言われる。
こう書くと,上2つの段落は実質的に矛盾していないだろうか。
引きこもりの人=そういう境遇にある人
そういう境遇にある人=刺激すると新たな犯罪に走る可能性がある
⇒引きこもりの人を刺激すると新たな犯罪に走る可能性がある,となるはず。
引きこもりという属性だけでレッテル貼りできないと言っておきながら,他方では言葉を換えて思い切りレッテル貼りをしている。まさにエセヒューマニストによるマッチポンプ商法。
今回の件は,引きこもりの人が,引きこもりであったことが原因で犯罪に走ったのではない。
幼少期に両親が離婚し,叔父叔母の家で差別的に育てられた人が,それらが原因で他人と上手に交流できなくなり,引きこもった。そしてなんらかの事情がきっかけで犯罪に走ったということだろう。当たり前である。
どこそこの自治体で引きこもりの人たちにヘルパーの職を紹介して更生させたみたいな実例を引き合いに,「引きこもりの人に対してレッテル貼りをするのではなく,社会が手を差し伸べるような仕組みが必要だ」とか言う人がいた。はたして,今回の件でも,川崎市が「社会」として手を差し伸べる余地はあったのだろうか。
そういう犯罪予防的なアプローチが全く間違っているとは言わないが,千差万別の事象に対してどのように具体的施策をとるべきか判断することは非常に難しく,現実的とは思えない。端的に,暴漢から子供たちを確実に守るためにはどうするべきかを考えたほうがよい。
大人がナイフを振り回したら素人は簡単に防げない。だから,原則的には,逃げられる状況にあって,逃げることが可能であれば,逃げればよい。しかし目の前で子供が襲われそうになったらどうする。自分の子供なら?他人の子供だったら?私は差し違え覚悟で突撃したい。それで子どもを守れたらそんな最高な事はない。
いざというときのためにシミュレーションをしたい気もするが,逆に犯罪予備軍とレッテル貼りをされるかもしれない(笑)。一体どうすればいいのだろう?
https://matome.naver.jp/odai/2140488260514087701
川崎中一殺人事件
https://matome.naver.jp/odai/2142527930984013501
川崎簡易宿泊所火災
https://matome.naver.jp/odai/2143191147900485801
川崎老人ホーム連続殺人事件
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そして先週の川崎登戸殺傷事件。
私は登戸に住んで15年ほどになるが,ここ最近,川崎では毎年のように世間を大きく騒がせる事件が起こっている。
というか,上の事件はいずれも,正確には「川崎市の多摩川の近く」である。
川崎市の形と多摩川との位置関係からして当たり前かもしれないが,それを考慮してもなお近い。偶然であるにせよ,そういうことがたまにあってもおかしくはない地域だなあと感じる。にもかかわらず,付近住民のセキュリティ意識は決して高くないようにみえるのだが,気のせいだろうか。
今回の事件以降,犯人の家庭環境に焦点を当てた報道が目に付く。「引きこもりだった」とは言わず,「引きこもり状態にあった」という言葉使いをしているのは,引きこもりの人イコール犯罪予備軍であるかのようなレッテル貼りをしないためである。それでも,引きこもりという属性に絡めた報道自体がレッテル貼りを助長するから,その言葉を使うことも避けるべきとの論調すらある。
そして,立川志らくが「1人で死ね」とコメントすると,「そういう境遇にある人」を刺激して新たな犯罪が生まれる可能性があるから控えるべきだとか言われる。
こう書くと,上2つの段落は実質的に矛盾していないだろうか。
引きこもりの人=そういう境遇にある人
そういう境遇にある人=刺激すると新たな犯罪に走る可能性がある
⇒引きこもりの人を刺激すると新たな犯罪に走る可能性がある,となるはず。
引きこもりという属性だけでレッテル貼りできないと言っておきながら,他方では言葉を換えて思い切りレッテル貼りをしている。まさにエセヒューマニストによるマッチポンプ商法。
今回の件は,引きこもりの人が,引きこもりであったことが原因で犯罪に走ったのではない。
幼少期に両親が離婚し,叔父叔母の家で差別的に育てられた人が,それらが原因で他人と上手に交流できなくなり,引きこもった。そしてなんらかの事情がきっかけで犯罪に走ったということだろう。当たり前である。
どこそこの自治体で引きこもりの人たちにヘルパーの職を紹介して更生させたみたいな実例を引き合いに,「引きこもりの人に対してレッテル貼りをするのではなく,社会が手を差し伸べるような仕組みが必要だ」とか言う人がいた。はたして,今回の件でも,川崎市が「社会」として手を差し伸べる余地はあったのだろうか。
そういう犯罪予防的なアプローチが全く間違っているとは言わないが,千差万別の事象に対してどのように具体的施策をとるべきか判断することは非常に難しく,現実的とは思えない。端的に,暴漢から子供たちを確実に守るためにはどうするべきかを考えたほうがよい。
大人がナイフを振り回したら素人は簡単に防げない。だから,原則的には,逃げられる状況にあって,逃げることが可能であれば,逃げればよい。しかし目の前で子供が襲われそうになったらどうする。自分の子供なら?他人の子供だったら?私は差し違え覚悟で突撃したい。それで子どもを守れたらそんな最高な事はない。
いざというときのためにシミュレーションをしたい気もするが,逆に犯罪予備軍とレッテル貼りをされるかもしれない(笑)。一体どうすればいいのだろう?
平成31年4月30日:退位礼正殿の儀
令和元年5月1日:即位後朝見の儀
自宅のテレビの前で起立しながら厳粛な気持ちで見ていた。両陛下のお言葉は,その内容もさることながら,日本語のすみずみまで誠実さが行き渡っており,非の打ちどころがなかった。
などと論評風なことを書くのは不敬に当たるが,陛下はきっと許してくださるだろう。天皇は,街宣車に乗る右翼であろうが天皇制反対デモを行う左翼であろうが関係なく,すべての国民の幸福を祈る存在だからである。
昔,朝生で舛添要一氏が「日本人のアイデンティティについて考えると,どうしても最後は天皇制に辿り着く」と発言したのを聴いて,ほとんど理解できなかった。とくに右翼思想でもない同氏がこのようなことを言うのは言いすぎと思う一方で,不思議なカッコよさも感じていた。しかし今は,その発言の意味を少し理解できたように思う。
北朝鮮をはじめ,韓国に中国にアメリカなどが傍若無人に振る舞っているのを見ると,その中で日本はどう在るべきかなんとなく考えてみたりする。具体的にどうすべきかはわからなくても,あんな風にはなりたくないな,日本人でよかったなと思ったりはしないだろうか。
あるいは,会社の不合理なルールの中で自分はどのように働きたいのか悩んだり,歩きタバコをしてはポイ捨てをする輩に腹を立てたりする。自分も他人に迷惑をかけていることはわきまえつつも,自分さえ良ければ良いという人間にはなりたくないと思ったりする。
このような自分の心の在りようの底には共通して,日本は美しい国であって欲しい,個人として美しい生き方をしたいという願望,美意識が潜んでいるように思う。
そんなことは「日本人」特有ではなく「人」として思うことだといわれればそうかもしれない。しかし私は,大地震の際に上皇さまが被災地に赴き膝をついて避難民にお言葉をかけているのをみて,「人」としてのみならず「日本人」特有の感覚もあると感じた。
あのとき,多くの国民ができれば現地に行って何か役に立ちたい,行けなくても募金で何かの足しにして欲しいと考えていた(人によるだろうが,遠い外国で大地震が起きても,我々は「日本人」としては思うところは少ない。)。日本人が日本人のことを慮る大なり小なりの善意が,上皇さまの訪問に象徴されていた。天皇が「日本国及び日本国民統合の象徴」であるとは抽象的で難しい言葉だが,簡単に言えばそういうことではないか。
天皇制を理解することは難しい。元号や皇位継承など合理的でないと思われる問題は,確かにある。しかし,合理的=正義,不合理=悪とか,右翼対左翼などの単眼的二分論に囚われていては,何も理解できない。
理解能力の低さを棚に上げて批判をするのでは,大学生の映画評論と変わりがない。自分の感覚とダイレクトに向き合うことから始めなければ,自分も他人も社会も国も理解はできないだろう。
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絶対誰も気づかないと思いますがdeathは不吉なので改名。
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