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松本人志監督第3作目「さや侍」を観てまいりました。
結論から言うと本作は、日本社会に蔓延する「ゆるさ」を、刀ではなく「さや」で叩き斬る快作でございました。
辛口の映画評で有名なあの松本人志が、一体どんな映画を撮るのか?
という世間の関心が高かったのは処女作「大日本人」の頃。
メディアによる北野武との比較が安易すぎて的外れというか、私はそもそも興味がなくて観ておらず、2作目「しんぼる」もスルー。
今回もべつにたまたまクソ暑いときに時間ができたため、涼むための手段として観たに過ぎなかった。
観る前の私の予想としては、
「映画」ってこういうもんと違いますの?
という挑発的な、どんだけ頭でっかちな映画がくるのかと期待していたのだけど、驚くほどにオーソドックス。
本作を通して松本監督が言いたいことは、いたってシンプルなものだった。
あんた父親でしょ?
父親いうたらこういうもんと違いますの?
あんた芸人でしょ?
芸人いうたらこういうもんと違いますの?
あんた日本人でしょ?
日本人いうたらこういうもんと違いますの?
あんた侍でしょ?
侍いうたらこういうもんと違いますの?
「父親」と「芸人」はともかく、一番につっこむべきはここだろう。
いやいや今「侍」なんていないから。
でも、
じゃあ、あなたは本 当 に「侍」ではないのですか?
と問われれば、ほんの一瞬、0.000000001秒は答えをためらってしまわないだろうか。
ためらってしまったそこのアナタ。
アナタは「さや侍」決定です。
本作の主人公は、刀を失くして「さや」だけを持ち歩く。刀がないので、襲われれば逃げるだけ。
あまりの情けなさから、年端も行かぬ娘に「自害してください」と叱責までされる始末。
しかし、刀がないから自害もできない。
ならば「さや」もを捨てて侍を辞めてしまえばよいものを、肌身離さず持ち歩き続ける。
そんなさや侍が、(理由は不明だが)切腹を免れるために30日以内に若君を笑わせなければならなくなる。
そこからしばらくは、悪く言えば長時間のコント。
終盤にさしかかるにつれ陳腐な展開になってきたなあと思ってたら、最後のオチ。そして辞世の句。
後から考えればべつに意表を突くほどのものでもないが、私はまんまとウラをかかれた(ま、単純なのでけっこう簡単にひっかかるんだけど)。
まずオチありきで、そこから逆算して話を組み立てたことは明らか。そこはお笑い芸人出身らしい。
また、そのオチに向かう筋以外に余計なものがほとんどない。ヘンな小手先の技術を盛り込んでこねくり回すこともせず、シンプルな構成。
松本は映画監督としてヘンに背伸びするわけでもなく、お笑い芸人であることから逃げていない。
あくまでファンとして無責任な上から目線で言えば、彼のテレビにおける一般的なイメージからは想像できないほどの「潔さ」を映画から感じた。きっとこの「潔さ」が、本作の鍵なのだろう。
もっとも、本作はシンプルではあるが、じつは結構重いテーマにもつながっていたりする(以下深読みゾーン)。
今日本は、相当におかしなことになっている。そもそも映画なんて観てる場合ではないくらい。
その原因は何なのかと考えたときに、
菅が悪い。いや民主党が悪い。いや東電が悪い。いやいや自民党、いやいや官僚、いやいやいや(ry
と、誰か悪い奴がいるなら話は簡単。
片っ端から刀で斬ればよい。
アメリカならそうする。悪い奴がいなくても悪い奴を作り出して斬る。
でも日本人はそうではない(本来は)。
ここで日本人である自分の身の周りのことから想像力を働かせてみるに、
根本的な問題はそういう単純なことではなく、我々みんなが持っている「べつに悪いとまではいえない、うっす~~~~~いグレー」が積もり積もって重なり合って、日本全体が黒くなっているのではないか?
最近私は、原発問題も根本はそういうところにあるように思えてきた。
なんだよその「べつに悪いとまではいえない、うっす~~~~~いグレー」
っていうかそもそも日本語としてどうなのって感じですが、それがきっちり言語化できるなら誰も苦労はしない。
しいて「さや侍」でたとえるならば、主人公を応援していた名も無き観衆が放つ「日本人的なゆるさ」がそれに該当するだろう。
彼らは刀で斬られるべき悪い人たちでは全くない。むしろ良い人たち。
松本もああいう人たちに支えられて仕事が成り立っているので嫌ってはいないはずだが、それとこれとは別で何かすごく気になっているのだろうなと思う。だから刀は使わず、さやで斬った。私はあのオチをそう解釈する。
当たり前の話だが、さやでは何も斬れない。
それでもさやで斬ろうとするか、それとも何もせず逃げようとするか。
中東でピストル1発撃つことすらままならなかった自衛隊や、今も福島で作業している人たちを想像してみてもいい。程度は違えど、あなたも私も似た状況にあるかもしれない。
日本人は昔から、「刀無しでなんとかしろ」という無茶振り的選択を迫られた人たちの頑張りに支えられてきた民族である。
そこが哀しいといえば哀しい。
しかし、あのラストシーンみたいに子供たちが無邪気に笑う所を見られるのなら、大人たちが命を懸ける意味は十分あるのではないか。
そして、そこに自分が日本人であることの必然性を見出せるのではないか。
「さや侍」はそんな風に思わせてくれる、本質的な意味で美しい映画でした。
というか、
「映画」ってこういうものなのかもしれませんね。
ちなみに私が斬りたいと思っているのは「松本が劣化した」とか抜かすお笑い通と、プライドばかりでこの映画を評価できない映画通の輩。これがまたなかなか斬れないんだけど。
世界(あなた)に向けて永遠に続くラヴ・ソング?あなた(世界)に向けて悠久に続くラスト・ジーク? 俺なんて死んだほうがマシなのか?俺なんて生まれてこなかった方が良かったのか?オーケー、トム。レビューだ。自己嫌悪の権化――レディオヘッド。
僕はこのアルバムの歌詞をすべて書き出してしまいたい。そんな衝動をおさえるので精一杯だ。 この2ndシングル“クリープ”は、ザ・ラーズの“ゼア・シー・ゴーズ”を聴いた時以来の衝撃だった。
そこで音が鳴ったとき、確かに世界はその色彩を変えた。高らかに咲き誇った。僕は悲鳴を上げた。世界は自分自身を苛み続ける憎悪の対象としてではなく、天使の羽を持つ限りなく美しいものとしてある。
連中は誰もロックがするように「世界は醜悪だ」と言い切ってしまうことによって獲得できるはずの“強さ”を敢えて拒んだ。 そして「世界は輝いている」と信じることによって否応なくもたらされる困難さを選び取った。 自己正当化を促すエクスキューズをすべて断ち切り、慰めをすべて拒否したところから始めるためだけに存在する果てしなく深い自己嫌悪の海。
だが、その奥深く沈み込むことは、登るべき峰や越えるべき海の険しさに思わず感謝してしまえるほどの揺るがない自信を生む。自分自身の惨めったらしさは袋小路などではなく、あくまで前提としてある。海底から見上げた陽の光は確かにある――そんな確信を手に入れる。手を触れた途端、 そのすべてが石に変わり果てたとしても?ははは、歌うことを止めはしないだろうね。
・・・・・・・・・・・・・・だって、ついさっきまで世界は輝いていたんだから。そうだろ?ワールド。
↑は、今月号をもって休刊となった音楽雑誌「SNOOZER」編集長田中宗一郎氏が、「rockin'on」在籍時に書いたレディオヘッドのアルバムレビュー(2ちゃんから全文コピペ引用)。
もう約20年前のことだが、確かに読んだ記憶がある。今読むとある意味すごいけど、私がrockin'onを熱心に購読していた当時(増井修編集長時代)のrockin'onはもっと頭のオカシイ人たちばかりだったので、彼のレビューがそんなに飛び抜けて変だという印象はなかった。しかしこうして振り返ってみると、当時のrockin'onを良くも悪くも象徴するレビューにも思える。「歌詞を全部書き出してしまいたい」とかよくあったわ。本当懐かしい。
このときのrockin'onには、確か田中宏明と田中宗一郎のダブルタナカがいて、2人とも地味で区別がつかないのを自虐ネタにしていたような記憶がある。で、いつの間にかタナヒロは総務に飛ばされ、タナソウは退社してスヌーザーを創刊していた。いつのタイミングかは自信ないけど、たぶん増井さんがBuzzを作ってすぐにrockin'onを追い出された時期ぐらいだったような(そういや、増井さんはレディオヘッドを非常に嫌悪してたな・・・)。
まあ、それよりも当時は増井さんがrockin'onを抜けたことが非常にショックで、どこかで音楽雑誌を立ち上げてくれてるのではないかと毎日のように経堂駅前のキリン堂書店に通ったものだが、結局消息はわからずじまいだった。そんなかわいらしい時代が私にもあったんですがそれはいいとして。
スヌーザーは・・・と語れるほど知らないのだけど、とりあえず基本方針は
アンチrockin'on
レディオヘッド愛
の二本柱だったはず。だからrockin'onが大きくプッシュするものはけなすかスルー。rockin'onが大きくとりあげないものを大プッシュ。
たとえば再び2ちゃんからもってくると、
パッフュームの新作、聴きましたようぷぷぷぷぷぷ。悪くなかったんじゃないですかね?うぷぷぷぷぷぷ。
でも、もっとわくわくするものが、別に50枚ほどあるので、ちょっと余力ないです。ごめんなさいねぎゃははは!
なので、パフュームのことは、あまり音楽を聴かない雑誌の方々にお任せしようと思います。
ていうか、向こうも別にスヌーザーのことは必要としてないと思うので。ははは。
万事めでたしめでたし、ということで。
ネットカフェ難民?ワーキングプア?切り捨てられる若者たち?あのさ、なんか皆、大騒ぎしてるけど、何か問題でもあるわけ?
だって、逆に言えば、それって、社会的な制約から自由ってことでしょ?60年代後半の若者たちが必死に求め続けて、手に入れることが出来なかったものを、21世紀に暮らすお前らは手にしたってことでしょ?最高じゃん? 何?それでもプアプア?難民なの?じゃあもういいよ死んで。死ねよ。
2つ目の記事は曽我部恵一のアルバム「キラキラ!」のレビューらしい。もはや肯定しているのやら否定しているのやら。
おそらく物凄く肯定しているんだろうけど、それにしても私にとっての神アーティストの神アルバムに、こんな文章を当ててくれてたとは・・・w
逆に何で俺リアルタイムでスヌーザーを買わなかったんだ?どうして俺に教えてくれなかったんだ?と歌いたくなるレベル。
タナソウが編集長以前に人として最低なことに争いはなく、話はそこから先にある。
彼がrockin'onで目立てなかった鬱憤をスヌーザーという離れ小島で爆発させている様子は、さながら彼自身が大嫌いであろうレディ・ガガのなり損ないに例えられるだろうか。あるいは、「タッチ」でいうと佐田商のエースとして再登場した吉田剛クンか。
大体今ちょっと最終号のぞいてみたけど、野田務と田中宗一郎の対談コーナーのタイトルを「のだなカンタービレ」とか寒いオヤジノリを発揮するような人が、「本物のユースカルチャー云々」などと語りだす様子はもはや致命傷。
まあ、一言で言ってしまえば立ち読みする価値もない雑誌だった。
そのスヌーザーが休刊することになって、まさか「さびしい」と感じようとは。
大衆迎合的、rockin'on的なものを激しく嫌悪する、スヌーザーはロックの基本に忠実だった。
最終号を買っただけだけど、微塵のイヤミもなくそう思う。
ロックだけでロックであることがほぼ不可能な時代において、rockin'onは大衆に迎合して何でもかんでも飲み込んでいって大きくなることで生き残り、体制側になることを引き受けた。
そのrockin'onを叩く武器は、必然的にロックに限られる。
スヌーザーはロックに縛られることにその存在意義を見出し、ロックと運命を共にした。スヌーザーをして「美しき敗北主義」との表現は、とても正しい。
でもそれを自分で言うなよと(笑)。
まあでも。
今までよくもったよな・・・。
今さらか?と思うけど、今だからという必然性も感じなくはない。
なんかオチをつけたいんだけどつけられない。やっぱなんかさびしいんだろうね。
先週更新を飛ばしたのは歌舞伎町、もとい神室町でゾンビ退治が忙しかったせいで、アー、モー、何もない。
もっとも厳密に言えば、私は3、4日前からクワガタを飼い始めている。これが報告すべき近況なのか、ちょっと迷ったけど。
何かを飼ったり育てたりという行為をおよそしたことがない。生き物を飼いたいという情はあっても、カワイイよりもメンドクサイに負けてしまう。
もし飼ったとしても、死なせてしまったらその悲しみに負けてしまうだろう。ヘタすりゃ後を追いかねないな。
しかし先日の朝玄関を出た瞬間、目の前にコクワガタ(♂)を発見。近所の子供のものかと思ってとりあえず保護しておいたのですが、気がついたらハンズで昆虫用虫カゴセットを買うとりました。虫なら死んでもあまり心は痛むまい。たぶん。念のため名前は付けないでおく。
てことで詳しくは画像つきで・・・と思うとるんですが、ケータイとPCをつなぐケーブルが見当たらんさかい、とりあえず今日は来週の予告編いうことで。更新止まると、「息しとらんのやないか?」と思われるみたいなのでとりあえず。
この微妙な関西弁はゲームのせいですが、これも来週までには治しときますてん。
「ますてん」は言わんか。
ひとまず今の段階でわかったことだけ書いておくと、コクワガタの見た目は正直、
ゴキブリと大差ない。
あと、暗い所が好きらしい。
それでは良い1週間を。
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