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~語るべきことなど何もないのに~
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とは言わないが、たぶんないのだろう。







私は鳩山由紀夫という人物に全く関心がなかったのだが、普天間問題や天皇陛下の面会問題での対応をみるに、何も考えていない人だということがよくわかった。








何も考えていないはさすがにあれか。





正確に言えば、哲学がない。何らかの行動をするにあたって、拠って立つ原理原則がない。






歴代の総理には、(バカはいたけど)彼らなりの原理原則があった。










しかし鳩山総理は・・・いやしょうがない。






彼を首相にしたのは私たち国民なのだから、その結果を甘受しなければならない。




というか、そもそも私たち国民自身が原理原則を持たない者の集まりなのだから、鳩山総理こそまさに日本国民の代表としてふさわしいともいえる・・・って皮肉が過ぎるか。







日本人は保守的な民族であるかのようなイメージが強いかもしれないが、全くそうではない。



保守的であるということは、単に何もしないことではなく、原理原則に従って行動するということである。



(少なくとも戦後以降の)日本人には原理原則が欠けている。原理原則がないから、自分から動けない。ただ風が吹けば流されて動くだけ。



具体的な個人となれば原理原則を持った人はいるが、日本人総体としてみるとそういうことになる。




例えば今年話題になった裁判員制度。



簡単に言うと、裁判員制度はド素人が評議に加わる点で実質的に参審制の性質を持っているところ、参審制は、憲法学会ではガチで違憲な制度とされてきた(違憲性の弱い陪審制について多少の議論がなされた程度)



しかしご存知のとおり、あたかも議論が尽くされたかのように擬制され、いとも簡単に導入された。





日本では空気とか流れができてしまえば、学者ですら原理原則に従ってNOとはいえず、それどころか後付けで制度の合憲性を無理矢理論証するためのつまりは国家権力の犬になりさがっているわけです。





どこかで日本の保守思想はすでに形骸化していると言ってた人がいたのを思い出す。小林よしのりだったかなー。

ちなみに今日のタイトルは事業仕分けに激怒した某ノーベル賞受賞者の言葉だけど、こんな覚悟のあるセリフを吐ける人もそうそういない気がする。残念ながら、今の政治家には無理だろう。



一応言っておくと、私は別にここで裁判員制度が違憲だ不当だと主張したいわけではない。
結局、私もあなたも、自分が裁判員に選ばれない限りは別に導入しようがしまいがどうでもよいと思っている。ただそれだけのこと。






それにしても。









誰も司法参加したいなんて思っていないのに、裁判員制度で一体誰が得をしたのだろう。






話を戻す。







普天間問題は、難しすぎる問題が背景にあるとしても、焦点は単にアメリカとの合意を守るのかどうかのはず。合意したら、それを守るのが原則である。





これやります。あ、やっぱかくかくしかじかなんでやめます・・・ってきちんと理由を述べればまだいい。
やめていい?どうしようかな?なんて言われたら誰でも怒るよ。





天皇陛下の1ヶ月ルールも、歴代の内閣が守ってきた原則である。




内閣総理大臣こそ、天皇を尊重する(ことによって日本を守る)立場にあるのだが・・・。私は右翼でもネトウヨでもないが、天皇は日本国民のアイデンティティの根幹をなしていることは間違いないと考えている。
かつて森元総理が「日本は天皇を中心とする神の国」と述べたことがあった。当時は頭おかしいだろあのオッサンと思っていたが、今では正しすぎる(正しすぎて言うべきでなかった)と思う。
しかし、鳩山現総理はリベラルなお考えをお持ちなのだろう。リベラルすぎて何も考えていないのだろうけど。





私には、鳩山総理は、原則を守れないのに政治主導とカッコつけているだけのようにみえる。
もっとも、政治主導と言いながらその実他人から操られているというオチなんですが。そういや、日本は日本人だけの所有物じゃないとか言ってたらしいから外国にも乗っ取られちゃうんだろうな。







1個や2個ならまだいいが、鳩山総理に向かって吹く風は何十個何百個にもわたる。普通の人間なら耐え切れずに死ぬだろうが、彼は流されるだけなのでたぶん大丈夫だろう。ただし、全ての風に流されてどこに行くのかは全く予想できない。とりあえずわかるのは、原理原則を持たない、哲学を持たないことの怖さを、これからしばらく実感する羽目になるだろうということ。そんなオーバーなって思うかもだけど。










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1ヶ月ほど前の私の誕生日前の日のこと。





いつもどおり昼休みから帰ると、プレゼントが積んであった。























SN342147.jpg





・・・


















こうみえて私は意外とモテる。




そう、あくまで意外と



























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なぜかピクルスもある。























ピクルスもらうってことは「意外と」モテる証拠とみなして間違いない。



感謝の印として、私はプリン480gを完食してみせた。
この辺の気遣いもまた、「意外と」モテる理由だろう。








しかしすぐ気持ち悪くなったので、後輩のU田君に黒烏龍茶を買いに行かせる。




U田君は頭は悪いが非常に忠実な後輩で、このときもハイ!っと元気良く買いに行ってくれるかわいい奴なのである。

































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飲めねえよバカ(ノ∀`)






















黒烏龍茶への愛が一気に冷めた。
























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そしてその後も(不二家飯田橋店限定ペコちゃん焼き)




























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続くよ続く(堂島ロール)

































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どこまでも(どこかのバームクーヘン)






















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終点はなぜか栗マン

















さすがにペコちゃん焼きはみんなで食いましたが。



私が日ごろからチップスター好きを公言していたせいか、どうも筒つながりでこういう流れになった模様。



まあ、ここまではいいです。


































20091022mog00m200066000p_size5.jpg







これはやっちゃダメでしょ・・・











人として、な(*´∀`)


































しかも誕生日から3週間後の忘れた頃にプレゼント。




パスタデココシーフードパスタL400gを食った後に帰ると、




机にドカン積まれてまして。




こーゆーのって普通はネタというか、仲間でケータイで撮影したりワイワイやりながら一緒につまむのが常道かと思いますがまあ、結局私1人で食いましたねえ、全部。



すごい苦しかったけど、食ったら食ったで

「まさかホントに食うとは思わなかった」と引かれる始末。






それ言ったら自分でもまさかなんですが。なんか負けちゃいけないかなーと。


でも、食べながら、大食いの技術というかコツってあるのだなと。ここを避けて食べればいいというポイントないしゾーンがあるように思いました。他の分野に全く役に立たないポイントないしゾーンですが。





というか、食った日の夜はりんご一個しか食えなかったし次の日まで心臓周りが若干重く感じたので、よい子のみんなは絶対マネしないように。














そして後日、私の食いっぷりを見て火が点いた2人の勇者と一緒にバーガーキング歌舞伎町店へGO。

































SN342167.jpg




最初はがっつくも、1人は即撃沈。





















SN342160.jpg




その間、私は1人優雅にベーコンなんとかワッパーセットを堪能。

















このテの流れには非常に流されやすい私ですが、もう2回目は絶対ないと思いましたからね。








そして帰り際、2人に対して、私はあくまでパスタ400g食った直後に完食したんだという圧倒的な戦力の違い、格の違いを強調しておくことは忘れませんでした。







他で全く役立たない戦力ないし格ですが。



















とりあえず健康を気にするのはやめようと思った冬のはじまりでございます。









先日公開が終了したマイケル・ジャクソンの「This is it」は、文句なく今年No.1の映画だった。



観た人であれば、この評価及び以下に述べるトンデモ話についても同意してくれるはず。





ほんの少しでも興味があったのに見逃してしまった人には、そのミスの重大さを痛感してしまうほど素晴らしいものだったと言っておこう。実際、夜に新宿の映画館を3つ周って全て満席のため退散し、わざわざ新百合ヶ丘に行ってもやはり満席だったので仕方なく翌日のチケットを買い、その翌日の回もすべて完売になったという事実。
そして、エンドロール後に会場で大きな拍手が起こったという事実(知人が他の日に観たときもそうだったらしい)が証拠である。



見逃した人は、ブルーレイを大画面で観ることをとりあえずお勧めしておく。ただし、映画館で観るべきだったとさらに後悔するかもしれないけれど。






映画は、今年行われる予定だったロンドン公演のリハーサル風景と、公演のために撮影し、使用するはずだったビデオの組合せで主に構成されている。通常であればマイケルを追悼するニュアンスでお涙頂戴的なものになりそうなものだが、そういうものでは全くないリハーサル映像といってもほとんどライブを観ているようなもので、非常に熱い作品、いやステージだった。ファンを楽しませたいというエンターテイナーとしてのマイケルの遺志をスタッフが受け継いだもので、マイケル自身の表現といっていいだろう。








マイケルも50歳だからもちろん全盛期とはいえないし歌も踊りも100%ではないのだが、それでも、あれが100%でないこと自体驚きである。リハーサルなのに。
リハーサルだけでなく、楽器隊、ダンサー、ステージディレクター等の裏方と緊密にコミュニケーションをとることで自分のイメージを伝え、最高のステージを作り上げようとする真摯な姿にも終始見入ってしまった。あれを見ずして、マイケルが偉大だなんて知ったかぶっていた自分を心底恥じている。

もしライブが行われ、もし自分が観ることができたとしたら、きっと一生の思い出になったことだろう。しかし、マイケルが他界したことによってこうした映像が観ることができ、かえってマイケルの人物像をよりよく感じることができたことを考えると、皮肉な話ではある。








マイケルは近年、整形、ネヴァーランド、少年との関係、裁判など、メディアを通して断片的に気持ち悪いイメージで語られることが多く、エンターテイナーであるマイケル・ジャクソンの本質が見えにくくされていたが、この映画を観ると、きれいに筋が一本通った気がした。




例えば、映画から伝わる完璧主義者ぶりからすると、おそらくマイケルは、汚い、歪んだものを嫌う潔癖主義者でもあったと思われる。だから、純粋なものに惹かれた。ネヴァーランドであったり、少年であったり。そしてこれまたおそらくだが、マイケルは非常に自由な感性を持ちあわせていた。だから、相手が子供だろうが大人だろうが、男だろうが女だろうが、黒人だろうが白人だろうが、純粋なものを愛したのではないか。




マイケルが肌の色を白くしたのは、黒人であることをコンプレックスに感じた、あるいは厳格な父親のせいだというのが世間的な通説のようだが、個人的には、マイケルは黒人だけでなく、白人にもなりたくなかったのではないかと思っている。もっといえば、人種もわからないような顔になりたかったのではないだろうか。黒人であることを捨てたという自分への批判に対して、黒とか白とか関係ないんだと高らかに歌い上げたBlack Or WhiteのPVが思い出される。このPVも、下手なロックよりよっぽど政治的な主張があったんだなあと改めて思う。






また、潔癖主義者という点に関連するが、マイケルはことあるごとに地球環境破壊のメッセージを発している。私はそれが、偽善的な博愛主義に基づくものかと思っていたのだが、どうもそうではなく、心から環境破壊にムカついていたらしい。映画の終盤、マイケルがリハーサル終了後スタッフの前でスピーチをするシーンがあるのだが、そこで彼は、環境破壊の防止は誰かがやるでは終わらない、自分達がやるんだと力説していた。そこまではいい。驚いたのは、環境破壊を4年で終わらせると具体的に宣言したことである。


昔イギリスの音楽賞の授賞式で、マイケルのステージが偽善的だといってステージ上の子供の群れに乗り込んでヘナチョコ踊りを踊ったジャーヴィス・コッカー(ex.PULP)を思い出した。私も当時はジャーヴィス最高!とか思ったものでしたが、若いって馬鹿ですよね。つくづく。










突然だが、ここで妄想してみる。


自分は何人の人から愛されているだろうか。








・・・1人もいないかもしれない(笑)。





冗談だけど、じゃあ、何人の人から愛されたいだろうか。1人でいいという人もいれば、この人もいいけどあの人も・・・という人もいるだろう。しかし、何億もの人に愛されたいという人はいないはず。もしそういう立場になったら正気を保つので精一杯、ていうかクスリ使ったって無理な気がする。ショウビズ界に身を置ける人というのは、まずそれだけで常人とは何かが根本的に違う。だから、常人の尺度だけで考えてはいけない。








ここまでは大丈夫だろうか。では次。








同じように、自分は何人の人を愛せるか。1人しか無理だという人もいれば、やはりあの人もこの人も(ry

しかし、何億もの人を愛せる人なんてまずいないだろう。

しかし、マイケルはそれができる人だった。


私のような凡人の感覚からすれば、人は普通、せいぜい半径10メートルの範囲内のものくらいしか愛せない。ところがマイケルのような超人になると、地球全体にいる人、動物などすべてのモノを愛することができる。愛情のスケールが違う。少なくともマイケルは、自分のファン全てを愛していた。映画で真剣にリハーサルする姿を見ると、そうとしか思えない。リハーサルのための薬物治療とはつまり、ファンのための薬物治療であり、つまりマイケルはファンのために命を削っていた。渋谷陽一氏が才能のある者は我々凡人のために命を削る宿命にあるみたいなことを言っていたけど、マイケルがKING OF POPと呼ばれたゆえんもそこにあると思う。














同時に、身近な人をファンと同じようにしか愛せなかったのかもしれないけれど。











以上が、「This is it」を観た私の感想である。
内容のアホさはともかく、この字数の多さはマイケルの影響力のなせる業である。




私は「This is it」がマイケルを美化し、金儲けするだけの虚構であるとは全く感じていないが、仮にそうであっても一向に構わない。



結局ポップスの醍醐味は作られた虚構をいかに楽しむか、つまり、誰に、どの程度騙されるかを選択することにあるのであって、そしてそれは、人生の醍醐味にも通じるものだと思うからである。






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絶対誰も気づかないと思いますがdeathは不吉なので改名。
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