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私が「はだしのゲン」を読んだのは小学校5,6年の頃だった。
担任の先生が教室の後ろの学級文庫に置くなり,生徒みんなが貪るように読んだのを記憶している。
最近みたいに図書室ではなく学級文庫だったということは,当時の小学校が公認するところではなかったのかもしれない。
思想的に左向きとかそういうことまではもちろんわからなかったが,リアルな戦争体験にただただ惹きつけられた。
子供心に原爆は怖い,戦争なんてするもんじゃない,と激しく刷り込まれた。
子供をマインドコントロールをするなら最適な書物だと思う。
「マインドコントロール」というと言葉は悪いかもしれないが,
作者なり出版社なり学校の教師が,子供にショックを与えて思想を特定の方向に持って行こうという狙いを持っていたのなら,あながち誤りとも言い切れまい。
マインドコントロールに正しいもクソもない,「マインドコントロール=悪」なんだ
と言われそうだがこの点はひとまず置こう。
閲覧制限反対派の言い分は大体こうである。
子供に全部自由に見せたうえで自分の頭で考えさせるべきだ。それが教育だ。
だから閲覧制限なんてとんでもない。
一見まともで常識的だし,私もどちらかと言えばこういう立場に近い気はする。
・・・気はするがしかし。
私自身,自分の頭でモノを考えられるようになったかなあ?と思えるのはせいぜい大学生くらいから(笑)。
平均的な人はもっと早いと思うが,みんながみんな小学校2,3年の段階から情報を自由に取捨選択して自分の頭で考えられるのか?というと疑問を感じる。
あまりに幼い子供だと,ショックを与えるだけで特定の思想に導くまでにも至らない。
教育効果が得られる適切な時期が来たら読めばよい。
何も「一生読んではならない」といったわけではない。
閲覧制限しようと考えた現場の大人たちの発想は,大体この程度のことだったのではないか?
子供にショックを与えるだけでも構わない!
自由に見せろ!
幼い子供に見せろ!
考えさせろ!
と騒ぐ人の気持ちが私には理解できない。
「表現の自由」とか「子供の知る権利」とか?
うーん,難しくてよくわからないな(笑)。
「自分の頭で考えること」はもちろん大事。
しかし考えた結果「戦争賛成」,「核万歳」な人間に育ってしまったら責任を取れるのか。
親なら子供に読ませて一緒に考えるもよし,全く見せないもよし。
いずれにせよ必然的に責任を伴う。
じゃあ学校は?
取れるはずがない。
閲覧制限に反対する人たちは,そんな風に育つわけがないと決めつけて想像もせず,無責任に言い放ってるのではないかと想像する。
「自分の頭で考えさせろ」と「言った」人間には,言ったなりの責任があることも覚えておくべきだろう。
ここで話は斜めにズレるが,物書きでもミュージシャンでも何かしら表現しようとする人間は,多かれ少なかれ他人をマインドコントロールしたいという野望を持って然るべきだと思う。
「自分の頭で考えろ」というメッセージも逆説的だが一種のマインドコントロールと言えなくもない。
表現には才能と野望の両輪が必要で,
才能がいくらあっても,他人をマインドコントロールしてやろうという強い野望がなければ心に何も残らない。
そういう野望だけ持ってて才能のない人を「ただの危ない人」と言ったりする。
念のため私はどちらもないですがそれはさておき。
最近私の心に残る文学や音楽が少ないと感じるのは,社会の中で危険分子の総量がどんどん減ってきているからではないか。
おかげで平和な世の中なのだから,それはそれで大変結構な話なんですが。
とまあ,オチは前々から言ってることに帰着しちゃいました。抜けられないワンパターン。
人は戦うために生きているのか、
あるいは生きるために戦うのか。
そのようにいきなり問われれば、大抵の人は「生きるために戦う」と答えるだろう。
格闘漫画やロボットアニメの世界でも、
戦うために生きているような野蛮な人がいて、
主人公が平和のために戦う
という図式が通常であって、そこでは前者が悪人として描かれる。
そういうストーリーを読んで育った人が多数派ではないだろうか。
もっとも最近では、主人公が信じていた平和や正義が無条件に信じられるものなのか?という悩みを加えることで深みを持たせるのがバトル物の定石になっている。それはそれで結構なことである。
しかしそんな中、「戦うために生きる」男が主人公である「修羅の門」は、ひときわ異彩を放つ作品の1つであると思う。
「修羅の門」は、千年の歴史を持つ人殺しの技、陸奥圓明流の継承者である陸奥九十九が、数々のライバルを倒していくストーリー。
(そう呼ぶかどうかは不明だが)「第壱門」が大体20年くらい前からスタートし、第四部で完結してから約10年後、「第弐門」がスタートして連載中。
本作の最大の魅力はストーリーのシンプルさにあるが、ここで私が強調したいのは、主人公九十九には、その最強っぷりとは裏腹に「戦う理由」があるのかどうかよくわからないところである。
命を懸けて戦うに値するような、もっともらしい理由が見当たらない。
ファイトマネーはいらないし、恋人や家族の命を守るとかいうわかりやすい理由もない。
(そもそも恋仲なのかどうかもよくわからない)ヒロインとの間で、「絶対に負けない」と約束をしたりはするけど、基本的には「陸奥圓明流の千年の歴史に敗北の文字はない」という決めゼリフを吐いてカッコよく強者どもを倒していく。それだけ。
陸奥圓明流継承者としての「業」(兄殺し)ないし「宿命」、その一点が九十九を突き動かしていた。
それが「戦う理由」として説得的たりうるのか、そんな宿命を背負ったことないのでよくわからないが(笑)、そのわからなさが九十九のミステリアスな魅力につながっていた。
もっともそれは、「第壱門」完結時(つまりレオン戦)まで。
「第弐門」では、かつての決めゼリフは出てこない。その代わり九十九は、
「負けてやってもいい。ただし自分より弱い奴には負けてやらん」
と言うようになった。
普通、話が進めば主人公は強くなるものだろうが、
九十九が強くなったかどうかはよくわからない。ただ確かなのは、
九十九が人として「壊れてしまった」ということ。
守るべき者がいないのは元々だったが、現在では陸奥圓明流の「宿命」からも解放されたようにみえる。
さらにいえば、自分の勝ち負けはおろか、生死ですら二の次。
ただただ「自分が」命のやりとりを楽しみたい。生死の際に身を置くために生きている。
究極の自由といってもいいだろう。確かに「壊れている」。
そういう意味では、九十九は元々壊れていたのではないか?とも思える。
ならば「修羅の門 第弐門」は、陸奥九十九という人間の本質がそういうものだった、つまり「修羅」であるということをより正確に描き出したということになる。
巷で未だ根深く蔓延っている「勝ち組・負け組」の論理に対し、
「自分はハナから戦っていないんだから勝ち負けとか関係ないんですよ~」っていう論理で対抗するのもいいだろう。私もよくやる。
しかし他方で、
人は生きるために戦いもするし、
戦うために生きる動物でもある。
勝ち負けの結果よりも戦うこと自体に生きる意味を見出す、という論理で対抗するのもアリではないだろうか(もちろん、結果がついてくるに越したことはないけど。)。
「戦う理由」がないから戦わない、それでは生きている実感が持てない。
でもじつは、知らないうちに戦いの場に巻き込まれている。そんな時代じゃないですかね。
というわけで「修羅の門 第弐門」もまた、この生き難い時代を生き抜くためのヒントを提供してくれる作品ではないかと思うわけです。
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