~語るべきことなど何もないのに~
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けっこう前の記事で,
マンガが最初からドラマ化アニメ化を念頭に描かれるせいで,過激さに欠けていてつまらない
てなことを書いたことがある。
それは私が長年読んできた週刊誌「モーニング」を念頭に置いてのことだが,その路線はまだ残っている。最近だと「宇宙兄弟」とか「鬼灯の冷徹」とか?
まあそれはそれで商売なので,よい。
しかし最近,ちょいちょい世間的なタブーに挑戦する作品も載るようになった。
たとえばプロ野球界の金銭面に切り込んだ「グラゼニ」
原発作業員の日常をリアルに描く「いちえふ」
警察組織の腐敗をテーマとする「サクラタブー」
などがそれに当たる。
倫理的な問題提起をしているのも含めると「コウノドリ」もそうかもしれない。
そんなわけでモーニングいつの間にかじわじわと面白くなってきたなーと思っていた矢先,今週,「グラゼニ」が予告なしで突如最終回を迎えた。
理由は(大人の事情)の一言。ずいぶんとわかりやすい。
最近のストーリーはちょうど,球団との契約更改で揉めた主人公がポスティングでメジャー挑戦を果たすもマイナー降格し,なぜか日本の最強チームと契約したところだった。
そのカラクリを描いたのが野球ビジネスのタブーに触れてしまった,ゆえの大人の事情。タイミング的にそうとしか思えない。
実際過去にああいう事例があったかはわからないが,根も葉もない作り話というわけでもないだろう。
まあ,あれをやったら潰されてもおかしくはないかなあと思う。
そういえば,「いちえふ」も毎週連載ではなかったが,第1巻を出して以降,あまり載らなくなった。ネタ切れなのか,それとも大人の事情なのかはわからない。
こうなると私の楽しみは「サクラタブー」のみにかかってくるわけだが,これものっけから国松長官暗殺未遂事件に被せたネタから始まって取り調べの可視化も扱っており,いい意味で危なっかしい。
少し前に,スピリッツ連載の「美味しんぼ」が福島県民はみんな鼻血出してるみたいなことを書いて議論を呼んだが,私はその真否や是非はさておき,雁屋哲氏がエンターテイメントの領域をはみ出てただ過激さに走ってしまったことが残念というか,あれしか方法がなかったのかなあと思ってしまう。
まあ,彼の中では他に方法が「なかった」のかもしれない。
でも結局,今となってはあの騒動自体忘れ去られて「なかった」ことになっている。
アイスバケツはどうか?秋になっても冬になっても被る奴はいるか?冬なら熱湯を被るか?
世の中を変えるのは少なくともパフォーマンスではない。覚悟だと私は思う。
タブーに挑戦する覚悟に加え,権力に潰されない知恵も必要。
それらをバランスよく兼ね備えているか。
どのタイミングで,自滅覚悟のカードを切るのか。
その境界線で戦っている表現者がいつの間にか,漫画に限らずあちこちで増えているのではないか。
そんな気がします。
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ずいぶん前に見たテレビで言ってたことだが,人は染色体か何かの関係で,
1.酒に強い人
2.普通の人
3.弱い人
とに分かれるらしい。
当たり前っちゃ当たり前なのでさらに言うと,日本人には1のタイプが外国に比べて少ないとのこと。
それもテレビに教えてもらわなくても薄々見当がつくかもしれないのでさらに言うと,
お酒に「強い」「弱い」はあっても,
「強くなる」とか「弱くなる」という話はないらしい。
(1の人はさておき)2や3の人が酒を毎日飲むうちにお酒に「強くなった」,あるいは最近飲まないから「弱くなった」ということはない。
つまり,こういうことである。
我々は,飲むと何かしらの細胞が破壊されて感覚が鈍くなってしまい,酔った感覚を得にくくなった状態を「強くなった」と呼び,逆に飲まないことで細胞が再生したことにより感覚が戻り,酔った感覚を得やすくなった状態を「弱くなった」と呼んでいたにすぎない。
だいぶ前に見たテレビに出てた一医師の一見解にすぎないのであまり真に受けないようにしてもらうとして,まあでも,お酒以外にも敷衍できそうな話だなあと当時思ったものである。
酒,たばこ,ドラッグに溺れる人を見て「弱い奴だなあ」と上から目線で見下してる人がいたとする。
その彼もゲームだのフーゾクだのインターネットだのと何かしらに溺れているのだとしたら,なんというか。
溺れることが×なわけではなく,自分も何かしらに依存していることに無自覚なところが×というかカッコ悪いというか。
「いや,俺が依存しているのはマラソンだから心は強いんだ」
なんて人もいるかもしれないが,それもどうだか。
いくら健康に気を使い心を鍛錬してるつもりでも,いざ人生の絶対的な絶望に直面すればわからない。
絶望を乗り越えるために人は宗教を発明したわけだけど,神のない時代に生きる我々は絶望とどう向き合ったらいいのか。
新興宗教で新しく神を作るのはオウムの件ですでにナシな方向になっている。あれはたしか1997年。
2000年以降,どうみても希望より絶望の割合が多くなってる世の中で,どう絶望と向き合うか。
1つは,徹底的に見て見ぬフリをすること。
あれこれ考えたってどうせ何もわからないんだから考えたって無駄無駄。
とりあえずお笑い番組でも見て笑って日々をやりすごしましょうよみたいな。
あるいは自分よりかわいそうな人のニュースを見ては怒ったり泣いたりしつつ内心,「自分じゃなくて良かった」っていう幸福。
以前はそういう人を下品だと軽蔑していたけど,最近はいつのまにか自分もそういうゾーンに片足突っ込んでいる。
しかしですよ。
他に,何か,もうちょっとマシなやり方はないのか?
そこで「おやすみプンプン」ですよ。
酒でもたばこでもなく,絶望に依存すればよいのである。
なるほど。
「おやすみプンプン」を読んで,絶望との向き合い方がわかりました。
・・・というのは嘘でございます。
1.絶望に強い人
2.普通の人
3.弱い人
とがいるとして,自分は2かなと希望的観測を持っているがさすがによくわからない。
軽い絶望を継続的に経験することで感覚を麻痺させるとかそんな計画的な人生を送れるわけもなく。
ただ,モノの見方を変えることで絶望を相対化することはできる気がする。
よくわからなくなってきたところでプンプンが向き合った絶望とは何なのかという本題に入りたいのですが,ちょっと,もう,疲れたので今日はこれまで。
てことでおやすみラヴァーズ。なんつて。
昨年末,高畑勲監督の「かぐや姫の物語」を観た。
第一感を一言で言うと,
よくわかんねえ
だった。
(アニメーション作品としてすごい)ことくらいはわかったが,無教養な私は「竹取物語」のあらすじもよく知らないから,何を足したり変えたりしたのかがわからない。
「姫の犯した罪と罰」というキャッチコピーも私を混乱させた。正直今でもよくわからない。
何より気になったのは,なぜ2013年にこの話を映画にするのか,時代の流れの中での必然性がわからなかった。
実際,関係者のインタビューを読むに,構想も含めた制作期間が長い(なんせ故・地井武夫がクレジットされてて驚いたくらい)のは,高畑監督がなかなか動かなかったことが大きな原因だったらしい。それはおそらく,高畑監督自身も必然性を強く感じていなかったからではないかと勝手に推測する。
時代との兼ね合いを常に考え,答えを出してきた宮崎駿と対照的であるが,だからといって高畑勲が劣っているということでは全くない。
物語として日本最古といわれる「竹取物語」。
それが長い間語り継がれてきたのは時代に流されない普遍性の強さ故であるし,普遍性を描くことにかけては高畑勲の右に出る者はいないのであるから,両者のマッチング自体には必然性はあったと思う。
ただ,普遍性の強さ故にタイミングはいつでも良かった。だから長いことかかった。単にそれだけのことかもしれない。
しかし私は,時代の中での必然性の有無に目を奪われてしまい,「かぐや姫の物語」という映画の美しさがよく理解できないでいた。
ところが最近,ある漫画の最終巻をきっかけに理解できたような気がする。
その漫画とは,
「おやすみプンプン」
by浅野いにお
なのです。
かぐや姫とうまくつなげられるかわかりませんが,続きます。
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絶対誰も気づかないと思いますがdeathは不吉なので改名。
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