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~語るべきことなど何もないのに~
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10年ないし20年に一度と言われる大雪の1週間後,

再び同じ又はそれ以上と思われる大雪が降った。


何人か死者も出た中ではしゃぐのも無神経だが,雪が地面と平行に降りつける様を見て,正直テンションがアガってしまった。



オリンピックやらW杯もそうだが,「~年に1度」とつくとそれだけでテンションがアガるのを禁じ得ない。








あと「現代のベートーベン」とかもアガるなあ。



かつてエイフェックス・ツインが全盛時に「テクノベートーベン」と称されたのもそういうノリでしたよね。

「エイフェックス好き」と言っとけばそこそこの音楽通を気取れた時代があったんですよ。

その勢いの流れで「テクノモーツァルト」と売り出されたμ‐Zicのデビューアルバムも買ったことがある私。








そういう若さゆえの恥部を持つ私が,何故(なにゆえ)に。



佐村河内守,及び彼をベートーベンに例えた人々をコケにすることができようか。

いやできるはずがないのです。










佐村河内氏をめぐる騒動が気になってしまう理由について,いくつかポイントを列挙しよう。











1.苗字が特殊

「佐村」も「河内」も単体で苗字たりうるのに,ドッキングさせることで妙に高級感が漂っている(気がする)。それが芸名なら自己プロデュースの一環と思えるのだけど,どうもそういう話は見当たらず,実名らしい。せっかくネタとしていじれると思いきや本名だという,その残念感も含めて気になる。








2 手口が幼稚

ベートーベンに例えられたのは「耳が不自由」という情報からであるが,本当にそうなのか疑わしいエピソードも多かったようである。
嫌いな物を食べたくないがゆえに「腹を壊した」と嘘をついたところ,親がおやつを食いだすと途端に治ったような治らないような苦しい言い訳をする子供のような,全然嘘をつききれてない感じ。

相手が子供なら「嘘つくな」と1発シバけばよいのだけど,大人だとそういうわけにもいかない。「耳が不自由です」という人に面と向かって「嘘つけ」と言える勇者はそうそうおるまい。

被爆二世という肩書はさすがに嘘ではないだろうが,それが余計にツッコミを難しくさせたことも否定できない。


それにしても未だにこんな幼稚な手口でお金を稼げたというのが非常に興味深い。






3 なぜ今

ゴーストライター新垣氏の会見によれば,高橋大輔がオリンピックで演技をするにあたって曲を使用するので,その前にわかった上で演技して欲しいとのことである。

そう言われればそうなのかもしれない。

まあでも,週刊誌的にはオリンピックの後でこのネタをぶちまけるつもりだったはずだから,それを見越して先手を打った可能性があってもおかしくはない。






4 ゴーストライター

昔のテリー伊藤に似ているように見えたのは,斜視だからだろう。斜視をネタにいじっていいのか悪いのかイマイチわからないがたぶん,7:3でよくない。その辺の絶妙なアンタッチャブルさも見逃せない。

この件で「タレント本もほとんどがゴーストライターですからねえ」なんてコメントをする人もいたが,それもまあ河内・・・じゃなくて公知の事実っていうかテレビ的に深入りしづらい話ですよね。









こうして書いていると,この件はネタとしていじりにくい要素が多いことに気づく。


しかしやはり。いじらざるを得ない。


都知事選やプンプンの話をさておいても,是非整理しておきたかった。


思ってた以上にどーでもいい話になったが気が済みましたわ。





いやあ,ゴーストライターで稼げてこそ本物の勝ち組なんだろうなあ(棒)。


















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宮崎駿が「風立ちぬ」のインタビューにおいて,作品名こそ明らかにしなかったものの不快感を示していたのを読み,宮崎信者の私としては,「永遠の0」にマイナスの印象から入ることは避けられなかった。











しかしその後,井筒監督が酷評したとのネット記事をきっかけに,一気に名作の推定が働いた。


観た結果,私の直観は的中。むしろ想定した以上に名作だった。


太平洋戦争で何があったか,日本とはどういう国なのかを知るうえで「プライド 運命の瞬間」や「終戦のエンペラー」と並ぶ上質なテキストと言っていい。









宮崎はゴリゴリの反戦平和主義者である反面,当時の兵器や戦記物にも造詣が深い人物であるから,二重の意味で安易なゼロ戦礼賛ストーリーが許せなかったのだろう。




しかし安易な礼賛であるかどうかはあくまで観たうえで個人個人が感じることにすぎない。私が見る限りでは,とてもそうは思えなかったが。




宮崎は映画はおろか原作小説も手に取っていないというのであるから,まあ,歳を取ればそういう感じになってしまうのも理解できないではない。

邪推だが,ゼロ戦について自分以上に語れる者はいないという自負があってのことではないだろうか。







対して井筒は,声のデカさで映画「評論家」として有名になっただけで,映画「監督」として他人の作品を酷評できるような地位にいたことはない,はず。

なんというか,宮崎が本物の左翼なら,井筒はアーティスト気取りのエセ左翼に見える。


サザンの感動的な歌で戦争賛美しましょう的右寄り映画に噛みつく俺ってカッコ良くない?みたいな。





こういう薄っぺらいスタンスの人が吐く言葉にギャランティーが発生することが不思議である。
嫉妬を超えて純粋に羨ましいと思う。まあ,薄っぺらいからこそ世間に浸透しやすいってことなのでしょうが。





なんて書いてると滅茶苦茶井筒を嫌っているように見えるかもしれませんが,べつにそういうわけでもなく。嫌ってたらこんな字数じゃ収まらないし。

むしろ,井筒が批判してると聞かなければ映画を観に行こうとは思わなかったはずなので,そこは本当に感謝してもしきれないくらい。


なんなら初めからそういう商法に引っかかった可能性もあるけどw











少しだけ作品の話をしよう。







観れば誰でもわかることなので詳しくは書かないが,


「永遠の0」はゼロ戦を礼賛し,戦争を賛美している映画なのか?


という問いを立てるとすれば,答えはNOである。





ここで「とすれば」と仮定的に書いたのはつまり,その問いはこの作品を語る上ではあまりストライクではないからである。




無理矢理にそのような問いを立ててYES,よってけしからん作品だと批判するのは,



自前の軍隊を持つことは戦争につながる

武器を持たなければ戦争がなくなる

戦争に加わった奴みんな悪

反権力こそ正義


と雰囲気でしかモノを語れない輩のすること。


こういう輩の言論が幅を利かせる時代は徐々に終わりつつある。




と同時に,あの戦争は何だったのか自分の体験として語れる人達もいなくなりつつある。
「永遠の0」の設定(現代に生きる主人公が,特攻隊員だった祖父がどういう人物であったかを知ろうとする)は,まさにそういう危機感を前提に作られたことの表れとみえる。



戦争についての肯定否定はさておき,下の世代に昔何があったのかを伝える責任。それは「風立ちぬ」を作った宮崎駿にも感じたことである。






実際に戦地で銃弾の下をくぐった人からすればぬるく見えるだろうが,戦争を知らない世代の人間が「あの映画はリアルじゃない」などと批判することの滑稽さといったら。そんなことは表現する現場の人間のほうがよっぽどわきまえているはず。


それでもなお風化させてはならない時代の記憶があると感じた人いて,その人達の才能,努力のおかげで小説,映画ができ,我々がその何かしらを感じることができた。


長い間,あの戦争について肯定はおろか,否定的でないトーンですら語ることは難しかった。今もまだ簡単とは言えない。そんな中で生まれた「永遠の0」は,とても幸福な作品だと思う。
























ずいぶん前に見たテレビで言ってたことだが,人は染色体か何かの関係で,

1.酒に強い人
2.普通の人
3.弱い人

とに分かれるらしい。


当たり前っちゃ当たり前なのでさらに言うと,日本人には1のタイプが外国に比べて少ないとのこと。




それもテレビに教えてもらわなくても薄々見当がつくかもしれないのでさらに言うと,

お酒に「強い」「弱い」はあっても,


「強くなる」とか「弱くなる」という話はないらしい。

(1の人はさておき)2や3の人が酒を毎日飲むうちにお酒に「強くなった」,あるいは最近飲まないから「弱くなった」ということはない。




つまり,こういうことである。

我々は,飲むと何かしらの細胞が破壊されて感覚が鈍くなってしまい,酔った感覚を得にくくなった状態を「強くなった」と呼び,逆に飲まないことで細胞が再生したことにより感覚が戻り,酔った感覚を得やすくなった状態を「弱くなった」と呼んでいたにすぎない。





だいぶ前に見たテレビに出てた一医師の一見解にすぎないのであまり真に受けないようにしてもらうとして,まあでも,お酒以外にも敷衍できそうな話だなあと当時思ったものである。







酒,たばこ,ドラッグに溺れる人を見て「弱い奴だなあ」と上から目線で見下してる人がいたとする。


その彼もゲームだのフーゾクだのインターネットだのと何かしらに溺れているのだとしたら,なんというか。


溺れることが×なわけではなく,自分も何かしらに依存していることに無自覚なところが×というかカッコ悪いというか。



「いや,俺が依存しているのはマラソンだから心は強いんだ」



なんて人もいるかもしれないが,それもどうだか。

いくら健康に気を使い心を鍛錬してるつもりでも,いざ人生の絶対的な絶望に直面すればわからない。








絶望を乗り越えるために人は宗教を発明したわけだけど,神のない時代に生きる我々は絶望とどう向き合ったらいいのか。




新興宗教で新しく神を作るのはオウムの件ですでにナシな方向になっている。あれはたしか1997年。

2000年以降,どうみても希望より絶望の割合が多くなってる世の中で,どう絶望と向き合うか。










1つは,徹底的に見て見ぬフリをすること。



あれこれ考えたってどうせ何もわからないんだから考えたって無駄無駄。

とりあえずお笑い番組でも見て笑って日々をやりすごしましょうよみたいな。


あるいは自分よりかわいそうな人のニュースを見ては怒ったり泣いたりしつつ内心,「自分じゃなくて良かった」っていう幸福。


以前はそういう人を下品だと軽蔑していたけど,最近はいつのまにか自分もそういうゾーンに片足突っ込んでいる。






しかしですよ。

他に,何か,もうちょっとマシなやり方はないのか?




そこで「おやすみプンプン」ですよ。





酒でもたばこでもなく,絶望に依存すればよいのである。



なるほど。




「おやすみプンプン」を読んで,絶望との向き合い方がわかりました。






・・・というのは嘘でございます。







1.絶望に強い人
2.普通の人
3.弱い人



とがいるとして,自分は2かなと希望的観測を持っているがさすがによくわからない。

軽い絶望を継続的に経験することで感覚を麻痺させるとかそんな計画的な人生を送れるわけもなく。


ただ,モノの見方を変えることで絶望を相対化することはできる気がする。






よくわからなくなってきたところでプンプンが向き合った絶望とは何なのかという本題に入りたいのですが,ちょっと,もう,疲れたので今日はこれまで。






てことでおやすみラヴァーズ。なんつて。






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絶対誰も気づかないと思いますがdeathは不吉なので改名。
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