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~語るべきことなど何もないのに~
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311の後、石原慎太郎東京都知事(当時)が大震災と津波は「人間に対する天罰」との趣旨を「含む」発言をしたところ、不謹慎との批判を受けて直ちに撤回、謝罪したことがあった。





彼には政治家としての側面と作家(表現者)としての側面があって、上記発言は表現者としてのものだったと思うが、しかしタイミングも含め、政治家としては激しくアウトだった。


ま、そこが良くも悪くも石原慎太郎らしいというか、そういう人物なのだとは思う。

 

 

 




それはさておき先日「エヴァQ」のブルーレイがリリースされ、その中に同時上映の「巨神兵東京に現る」も収録されていた。






 





巨神兵とは、宮崎駿監督の「風の谷のナウシカ」に登場する巨大な人造人間のこと。殺戮兵器として最終戦争、いわゆる「火の七日間」で世界を滅ぼした、という設定。

ここでの巨神兵は物質文明の象徴、つまりは現代人の驕りを象徴していた。そこに警告を発するのが宮崎駿のライフワークであり、ナウシカからもののけ姫までの宮崎作品の核であったことは言わずもがな。




そのナウシカで巨神兵パートの原画を担当していたのが庵野秀明。
その彼が30年後に特撮作品で巨神兵を蘇らせ、現代版(?)「火の七日間」を再現した。時間にしてものの10分。東京どころか世界の全てが焼き尽くされてしまう。




「ナウシカ版」との違いは、巨神兵は人間が作り出した殺戮兵器ではなく、圧倒的な力を持った神であること。

人間が調子に乗った天「罰」としてではなく、世界が生まれ変わるプログラムとしての天「災」

善人にも悪人にも平等に無慈悲な絶対的「力」として描かれている。

 

 




ナウシカが映画になった1980年代半ばはまだ冷戦構造下で、「戦争はやめましょう」、「核兵器は廃絶しましょう」と人間同士の話だけしていればとりあえずは足りた(もちろん環境問題は当時もあったけど)。人間が己を戒めることで地球の自然も保たれる、なんていう幻想があったといってもいい。

しかし今では、人間対自然との関係をもっと深刻に考えなければならなってきている。311の地震、原発の問題を経て危機感が急速に加速している。正しく生きようが生きなかろうが関係ない。


巨神兵の設定の違いの中に、そういう時代背景の違いが見てとれる。

 

 

 

「巨神兵東京に現る」では、地球はおろか太陽や月も壊してしまうのだから救いのなさは最上級。そう、救いは「ない」


 







しかしだからといって、何かあったら諦めろということではない。




作品の最後に語られる結論は、神の意思とか運命とかそんなものは全部無視してとにかく逃げて生き延びろってただそれだけ。これってネガティブを突き抜けた究極のポジティブではないだろうか。



ま、基本的に期待はしないけど救いがあったらあったで儲けもの、と思っておけばいいんでない?っていきなり軽くなっちゃったけど(笑)、今日はとりあえずこんな感じで。







 

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人は戦うために生きているのか、




あるいは生きるために戦うのか。








そのようにいきなり問われれば、大抵の人は「生きるために戦う」と答えるだろう。




格闘漫画やロボットアニメの世界でも、

戦うために生きているような野蛮な人がいて、

主人公が平和のために戦う

という図式が通常であって、そこでは前者が悪人として描かれる。
そういうストーリーを読んで育った人が多数派ではないだろうか。


もっとも最近では、主人公が信じていた平和や正義が無条件に信じられるものなのか?という悩みを加えることで深みを持たせるのがバトル物の定石になっている。それはそれで結構なことである。









しかしそんな中、「戦うために生きる」男が主人公である「修羅の門」は、ひときわ異彩を放つ作品の1つであると思う。




「修羅の門」は、千年の歴史を持つ人殺しの技、陸奥圓明流の継承者である陸奥九十九が、数々のライバルを倒していくストーリー。

(そう呼ぶかどうかは不明だが)「第壱門」が大体20年くらい前からスタートし、第四部で完結してから約10年後、「第弐門」がスタートして連載中。








本作の最大の魅力はストーリーのシンプルさにあるが、ここで私が強調したいのは、主人公九十九には、その最強っぷりとは裏腹に「戦う理由」があるのかどうかよくわからないところである。

命を懸けて戦うに値するような、もっともらしい理由が見当たらない。









ファイトマネーはいらないし、恋人や家族の命を守るとかいうわかりやすい理由もない。

(そもそも恋仲なのかどうかもよくわからない)ヒロインとの間で、「絶対に負けない」と約束をしたりはするけど、基本的には「陸奥圓明流の千年の歴史に敗北の文字はない」という決めゼリフを吐いてカッコよく強者どもを倒していく。それだけ。

陸奥圓明流継承者としての「業」(兄殺し)ないし「宿命」、その一点が九十九を突き動かしていた。


それが「戦う理由」として説得的たりうるのか、そんな宿命を背負ったことないのでよくわからないが(笑)、そのわからなさが九十九のミステリアスな魅力につながっていた。





もっともそれは、「第壱門」完結時(つまりレオン戦)まで。







「第弐門」では、かつての決めゼリフは出てこない。その代わり九十九は、





「負けてやってもいい。ただし自分より弱い奴には負けてやらん」



と言うようになった。




普通、話が進めば主人公は強くなるものだろうが、
九十九が強くなったかどうかはよくわからない。ただ確かなのは、

九十九が人として「壊れてしまった」ということ。





守るべき者がいないのは元々だったが、現在では陸奥圓明流の「宿命」からも解放されたようにみえる。

さらにいえば、自分の勝ち負けはおろか、生死ですら二の次。
ただただ「自分が」命のやりとりを楽しみたい。生死の際に身を置くために生きている。




究極の自由といってもいいだろう。確かに「壊れている」。






そういう意味では、九十九は元々壊れていたのではないか?とも思える。


ならば「修羅の門 第弐門」は、陸奥九十九という人間の本質がそういうものだった、つまり「修羅」であるということをより正確に描き出したということになる。













巷で未だ根深く蔓延っている「勝ち組・負け組」の論理に対し、


「自分はハナから戦っていないんだから勝ち負けとか関係ないんですよ~」っていう論理で対抗するのもいいだろう。私もよくやる。

しかし他方で、



人は生きるために戦いもするし、


戦うために生きる動物でもある。






勝ち負けの結果よりも戦うこと自体に生きる意味を見出す、という論理で対抗するのもアリではないだろうか(もちろん、結果がついてくるに越したことはないけど。)。






「戦う理由」がないから戦わない、それでは生きている実感が持てない。

でもじつは、知らないうちに戦いの場に巻き込まれている。そんな時代じゃないですかね。






というわけで「修羅の門 第弐門」もまた、この生き難い時代を生き抜くためのヒントを提供してくれる作品ではないかと思うわけです。
























最近、遅ればせながら「モテキ」を読んだ。





話題になった当時も「音楽好きならハマるはず」と複数の方面から勧められていたが、

それが悔しくて読めないでいた私こそまさに「適格者」だったと言っていい。










ここまで来る道のりは遠かった。






いい歳した大人が



カタカナで「モテキ」などと書かれた流行のマンガを




公共の場である書店において





その手に取ってレジに持っていくや否や




さも何事もなかったかのように購入しようなどという、




まさに下衆の極み。









これが私の第一の壁だった。






しかし最近、遊びに行った友人の家にたまたま置いてあった。



「それじゃあ、しょうがないか」( ´・∀・`)



あっさり和解。










そして、

「なんだかんだ言って本当は興味あったでしょ?」




というもう1人の自分からのツッコミ。これが第二の壁。











もはや否定できないので、とりあえず所有者に「宮本から君へ」と「ザ・ワールド・イズ・マイン」を貸すこととし、その交換として「モテキ」、それに「おやすみプンプン」も借りましょうか?君がそこまで言うのなら?みたいな。








こんな面倒くさい手続きを踏まえ、ようやくたどり着いた。何やってんだ俺は。












4巻をとりあえず2日でザーッとひと回し読んだ。








たったそれだけを2日かけて?と思うだろうが、







「ここは俺と違ーう!」




「ここはリアリティがなーい!」




「ここは羨ましくなーい!」







漫画ごときに自分の真ん中を撃ち抜かれたくないという、往生際の悪いもう1人の自分をぶん殴りながら読むのは非常に手間のかかる作業だった。









ていうくらい、フジは私だった。










と思った。






フジは私で私はフジで~ってもういいか。







2週目はじっくり落ち着いて読んだ。

たしかに私は土井亜紀のような女性を理想に掲げた時期があった。しかし今はどうでもいい。イツカちゃんでもナツキでもなんでもいいし、どれでもダメになったと思う。



たぶん私はもう、フジから墨田的なポジションへシフトしているのだろう。





見栄でもなんでもなく、ごくごくフラットな気持ちでそう言えてしまう。そこが自分でも残念である。



「モテキ」に出会うのは10年遅かった。








フジと10年前の自分と比較して決定的に違うのは、恋愛をすることで「自分を変えたい」という発想がなかったことだろうか。

そこが今でもピンとこない部分だが、しいていえば恋愛より先に自分を変えるものだと思っていた。










しかし最後にフジが苗場に言って土井に気持ちを伝えたのは、そういう面倒なことを考えなくなったから、という主旨だったのなら異論はないわけだけど。





よくわからない。私には詰めが甘いように見えるが、だがそこがいいのだと思う。



作者が実は女性だから鋭い女性目線によって立体的になった、ということもあるだろう。

けど私にとって「モテキ」の最大の魅力は、最後の最後、奥の奥の部分は作者自身のパッションがぶちまけられている感じ。

それはあたかも若いロックバンドがドアを蹴破って殴り込んできたような痛快さであって、この痛快さこそが最近のロックバンドに決定的に欠けている、という話は今まで散々書いてきた。







もう仕方がないのだろう。

ロックについてなのか自分についてなのかわからないが徐々に腹を括り始めている私にとって、「モテキ」はなかなか眩しく映ったのでありました。












次回は(たぶん)「修羅の門」について。



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絶対誰も気づかないと思いますがdeathは不吉なので改名。
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