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~語るべきことなど何もないのに~
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明治

大正

昭和

平成




歴代の元号はカッコいいともダサいともならない。全くの無意味ではなく,国民がこうありたいという理想を感じさせるような雰囲気がうっすら漂う程度であり,高邁な理想を押し付けるほど説教臭くはない。
小渕さんが「平成」の2文字を掲げた当時,どういう感想を持ったかすら覚えていない。昭和天皇崩御と自粛ムードに気を取られてそれどころではなかったというのもあるが,誰からも褒められることもなければ貶されることもなかった。でも,それがよかったのだと思う。




かつて一度も使われていない,他の地名などでも使われていない,頭文字がMTSH以外である,など様々な制約の中で,絶妙な二文字を構成するのは本当にすごい事だと思う。
ググれば被りの有無がすぐにわかるからその点は楽かもしれないが,その分,検索履歴が盗み見られないようにしなければならないからやはり大変である。


どこぞの調べによると予想1位は「安永」らしいが,一度使われたことがあるらしい。他にも「安久」など「安」がらみの予想が上位に来ている。同じく多い「永」はあるかもしれないが,現職総理大臣の苗字と同じ「安」はさすがにないと思う。政治性を帯びてはならないからである。
私の予想(希望)は2文字とも初めて使われる字が良い。一般大衆が安易に思いつくようなものではダメだと思う。




最近の新元号騒ぎに対しては,必ずチャチャが入る。情報漏洩防止のためのスマホ没収に反発する議員がいたり,天皇即位ごとに元号を変えることは憲法違反だとして訴訟を起こした弁護士もいた。自分の周囲でも,元号なんて仕事の邪魔でしかないから廃止して西暦にしたほうが合理的だと強く主張するものもいる。



何でもかんでも合理的か否かで考える人間というのは一見賢く見えるが,私からすれば単眼的でしかない。なのに「へえ頭良いんですね~」という風に応対しなければならないから面倒である。まさに平成あるあるな人。


元号は日本の歴史そのものであり,元号の否定は日本の歴史,日本国自体,ひいては自分自身を否定するのに等しい。それが古い発想だというなら,古くてなぜ悪いのか是非問うてみたい。でも面と向かって問うのは怖いからやめておく。


外国から歴史を盾に日本を否定する主張をされても何も言い返せずに,まあまあまあ経済第一で仲良くやりましょうよ。日本はあなたのいうとおりの歴史だったということで全然大丈夫です。なんなら戦勝国である欧米諸国の皆様に合わせて敗戦国の我々が歴史を捨てて,西暦でカウントした方が都合よいじゃないですかなんてね。
軍国主義から一転,経済第一主義がまかり通ったのが昭和であり,その負の遺産に悩まされたのが平成という時代だった。


ネトウヨと揶揄されようが,日本には天皇も元号も君が代も必要であると言い張りたい。平成初期のサッカー日本代表戦では誰も君が代を歌わなかったが,この前のキリンカップでは選手も観客も当然のように歌っていてうれしくなった。


話を戻してまとめると,元号は日本の歴史を刻む最も重要な物差しであり,非常に厳かなものである。そうであれば,改元するにはそれなりに厳かな手続を経るのが当然である。そういう当然のことが当然に行われる時代になってなってきていると思うし,よりそうなって欲しい。それが私の望む,新元号のイメージである。




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ニュースを見たとき驚いたかというと,さほどではなかった。


世間的には売れっ子俳優としてお茶の間に浸透していたから,「いい人なのに」という驚きとショックがあるようだが,昔から電気に感電させられてきた人間からすると,売れっ子俳優として祭り上げられたことの方が驚きである。





電気グルーヴが鳴らす音や活動の在り方を見ていれば,どこかに何かしらのドラッグが作用していると考えるのが自然だと思う。


音作りのほとんど全てが石野卓球によるものだとしても,卓球ソロ名義と電気名義の音が別物であることは容易にわかる。


電気好きの中でも電気=卓球のように考える人は多いかもしれないが,そうではない。電気=瀧である。瀧の異質な世界観が卓球によってプロデュースされたものが,電気グルーヴなのである。




(法的問題や社会的問題をさておいて)アーティストがドラッグをやること自体は反対ではない。自分で勝手にやってダメになる分にはそれも人生だと思う。でも,ドラッグに頼らないと作品が作れないようなら,もはやアーティストとは言えないのではないだろうか。
自分たち一般人だって,ドラッグをやれば,絵画なり音楽なり何かしらでアートらしいものを作れる(と思える)。ドラッグをやらずしてあのような狂った作品を作れるからこそ,尊敬に値する。だから電気グルーヴは尊敬されてきたし,自分も尊敬していた。


だから今回のニュースにはがっかりした。意外なことは1つもない。
電気の作品が買えないとか,瀧出演の映画が見られないとか,損害賠償がどうとかどうでもよい。ただただがっかりした。「なあんだ」ってね。










一週間経った今日,冷静になって見返しても,一番面白かったのはジャルジャルで,優勝すべきは和牛だったと思う。





とろサーモンは上手いのかもしれないが,彼らにしかできないことは何か?新しいことをやったか?と考えるとよくわからない。
正直,何年も売れなくて辛かった的なコメントを連発して苦労人ヅラするのが鼻についてしまい,好意的に見ることができない。売れなくて辛い芸人なんていくらでもいるのに,と。







ジャルジャルの漫才に対して「同じことの繰り返し」とか「何か大きな展開があるのかと期待してしまった」とコメントした審査員がいた。わからんではないが,しかしちゃんと聞けば同じことの繰り返しではないし,そもそも漫才はコントではないのだから大きな展開など十分条件であって必要条件ではないのではないだろうか。
要するについていけなかっただけである。新しくて,独特で,テンポ速すぎ,と三重に一部の審査員を置いてけぼりにしてしまった。だから一番面白くても,優勝することはできなかったのだと思う。決勝は点数制ではないので,2本目にぶつければ優勝はできたかもしれないが。





和牛は明らかに頭1つ抜けていた。2本とも最高だった。昨年の決勝で負けて今年勝つ,というストーリーも十分整っていた。しいて言えば,絶対に勝てるという確信があからさまに態度に出ていたのが気になったが,そうなるのも無理はない出来だった。今年のクオリティで負けて,また来年挑戦する気になれるものだろうか。今年の負けは和牛にとって余計な負けな気がして心配である。






話を戻すと,ジャルジャルと和牛に比べ,とろサーモンは置きに行っていた。しかし,新しい挑戦という名の余計な努力が理解されなかったという,そういう2組に救われた形の優勝である。

こういう結果を見ると,優勝したいなら新しいことなどやらずに無難にやろうと。優勝する気がないなら新しいことをやって爪痕を残す。今年のキングオブコントのかまいたちとにゃんこスターもそんな感じだったが,この傾向は今後も続くだろう。その妥当性はさておき,テレビ番組という枠の中で完成された,ちょうどよいオチなのかもしれない。






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絶対誰も気づかないと思いますがdeathは不吉なので改名。
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