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~語るべきことなど何もないのに~
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次回予告が守られて自分が一番驚いてます。てかもうすぐ忙しくなりそうなのでピッチ上げ。















ポップスは時代を映す鏡であるとよくいわれます。







まずこれを、


その時代の空気を吸って吐き出したもの




と私なりに言い換えさせてもらうとして。










そうだとすると、ここで書かれていることも、私が時代の空気を吸って吐き出したものである点で「ポップス」になる。









といってもべつにアーティストを気取りたいわけでなく、こういうことは誰でも何かしらの形でやっているわけで。






ただ、内容が大衆の支持を得るレベルではないため、商品にならないだけ。










世にいうアーティストも、時代の空気を多かれ少なかれ吸っては吐き出している。

私たちとの違いは、空気を見つけるアンテナと、吸った空気を通すフィルターの質の違いと考えてもらっていい。「才能」ともいう。









一段階下ろして少し具体的に言うと、例えば「歌姫」と呼ばれる人たちは、ただ歌が上手いとかかわいいだけでそう呼ばれたわけではなく、その時代の乙女たちの心情をリアルに吐き出したから「歌姫」になったわけで。














そこで、今年活動を休止した宇多田ヒカルである。








ニュースを聞いたときは非常に残念だったが、他方で「やはりか」とも思った。












というのも、今ポップスで歌うべきもの、吸って吐き出すべき空気が見つけにくいと思ったから。







つまり可能性としては


①ネタは存在するけどアンテナが折れた


②アンテナは正常だがネタが存在しない


とりあえず2つが考えられるところ、私は②ではないかと勝手に解釈している。


私は専門家ではないから彼女の才能が枯渇したとかポップミュージックの方法論とかマーケティングがどうとか難しいことは一切わからないが、そんな気がしてならない。


宇多田一人がスランプなだけならまだマシな方であって、もし②だったら・・・私の見当違いであって欲しいものです。








なんにせよ、彼女が活動を休止したことさえもポップスの鏡に映ったこの時代の姿なのかもしれません。











空気があるとかないとか言ってる自分でもそろそろなんのこっちゃいなので、話の角度を変えます。








ポップスがポップスであるためには、



普遍的であること



が必要でありましょう。








例えば西野カナは、2010年の同年代の乙女にとって普遍的なのかもしれない。
しかし違う年代の女性にとってはそうではないし、違う性別違う年代の私にとってもそうではない。


他方で、現在の80年代ブームあるいはカバー曲ブームは、私の年代にとっては普遍的ではあるが、それ以外の年代にとってはそうではない。




こんなに個別化された普遍性があり得るのかちょっと疑問はありますが、それはさておき。








言わなくても知ってるでしょうが私に女子高生の知り合いはいない。接点がないから共通の価値観があり得るのか想像もつかない。
当たり前すぎる話だが、こうやって年齢、性別等で細かく細分化されたことでキメ細やかなサービス、商売が成り立ってきた反面、女子高生もオジサンもバアサンも同じように楽しめる普遍的なものがわかりにくくなったと思う。



こんな風にバラバラな私たちをつなげる普遍的な表現をできる人が、音楽業界では宇多田ヒカル以降出てきていない、と私は思う。









もっとも、ポップスの肝が普遍性にあるとすれば、昔のネタを繰り返したりパクったりすることも裏側からポップスを実践しているだけであって、それ自体は何ら唾棄すべきことではない。今の若者に対してオリジナリティが乏しいなどと批判するのは、全くもってお門違い。









だから安全地帯のベストを買った私も全然間違ってない。














最後に、ポップスというのは大抵安っぽくてくだらない、

だけど抗えないB級グルメのようなものといえましょう。








そういう意味で、AKB48や少女時代はまあ、そりゃそうなんですが・・・。






でもねえ、








20代前後娘の大群

ですとか

美脚ズラリ

とかはっきり言って私のような終わってるオジサンたちのストライクゾーンでしかないのであって、それをポップスのメインストリームに乗せてしまうのはいかがなものでしょう。

どこか一部では盛り上がっているのでしょうけど、ターゲットであるはずの私が彼女たちの活動に注目してないのですから。


釣られたら負けですが若い娘相手ならむしろ本望。でもモー娘。のような抗えないB級感までは感じないんだよなあ(そいや「LOVEマシーン」のシングルまだ持ってるわ。)












というわけで(?)この時代の閉塞感を打破する本物のポップスが望まれるところですが、時代の鏡とは本当にその通りで、鏡が現実を変えることもありません。カリスマや魔法使いはそうそう簡単には生まれてこない。








そうだとすれば、変わったと錯覚させるように鏡に細工できる人が必要なのかもしれません。


でも、それが今この2010年に秋元康なのかというと、うーんなんか歳取りすぎてる気もするしなあ。








まあ、私もゴチャゴチャ言うならレディ・ガガのスマートフォンでも買ってろってことですかね。

















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今日は「今さら」かつ「またか」な話。









いわゆるロックという音楽は、アメリカではヒップホップ、UKではダンスミュージックにすっかり飲み込まれちまったんだな、と。
JAY-ZやUNDERWORLDを観て、改めてそのことを実感した。






ひとまずは、ロックが純血を保ちながら他のジャンルに太刀打ちできなくなったことは率直に認めるべきだろう。




かといって。ロックの側がヒップホップだのダンスミュージックを取り込もうとすると、ロックバンドとしてのアイデンティティを維持することが難しくなるってかもうそういう手法には飽き飽きだわな。











そんなわけでここ数年、ロックに対して退屈だなんだアニメの方が熱いんだとか思っていたのだけど。





しかしつい最近、自分のそういった考えが浅はかに、
若干ズレていることに気づいた。














逆に考えてみるに。




JAY-ZやUNDERWORLDは何故ロックを取り込んだか。













べつに難しい話ではない。より多くの大衆に訴えかけるため、表現の強度を増すためにそうしただけ。
目的を達成するにあたって、ロックを取り込むのが最も効果的だったのである。










そういう意味でロックは今でも非常にモテるジャンルであって、あえて不適切な例え方をすると、誰とでも寝るイイ女みたいなもの。
その時代ごとに勢いのある男(ジャンル)に抱かれる。そうやって相手にパワーを与え、自分も生き延びてきたのである。


だから、少なくともこの2010年に「ロックは死んだ」とかいうのは
「処女でなきゃイヤだ」
と駄々をこねるのに似た見当違いな発言ですよと。





















って自分のことでした。


















・・・(´∀` )









あくまで例え話
ですのでそこは切によろしくお願いするとして。


ま、純血であるがゆえの美しさもあれば、汚れまくったがゆえの美しさもあるのだと思います。何言ってんだ俺は。

















ここでロックとアニメの話になるわけですが、ちなみに「表現の強度」というのは適当に言っている言葉でして。
私としては、この音楽が映像の力に負けないものであり、この映像も音楽の力に負けないといった程度の意味で考えてます。





























































ロックでもアニメでもないものが混ざってますが気にしません。










疲れたのでこれらについてコメントするのはまた次の機会にて。


とりあえずここでは、ヒップホップやダンスミュージックがそうしたように、アニメもロック、ジャズ、ヒップホップを飲み込み始めたと。
そんな中で、ロックも死んだわけではなかったということを無理やりにでもおわかりいただければと。











というわけで(おそらく)次回、






「死んでたのはじつはポップスでした」







をお楽しみ。




 

















もう2、3話まで観てしまっているものもありますが、特に変更はないものと思われるので簡単にコメント。











それでも町は廻っている
1話に限って言えば、私は何度でも観ていられる。それは内容がくだらなくても作りが丁寧だから。
くだらない&喫茶店が舞台ということで私の大好きだったドラマ
「マンハッタンラブストーリー」を思い出したけど、あれほどハイテンションではなく。女子高生2人とバイト先の「メイド長」ウキ婆さんの緩いやりとりを中心に話が廻っていく模様。

主人公歩鳥のアホ声(近くで聞いたらイライラして投げ飛ばしそう)と、トシ子役悠木の台詞回し(特に第1話)、婆さん役にまさかの櫻井孝弘(イケメン役専門)、とこの3人の組み合わせからして楽しい。私にとって新房&シャフトの組み合わせといえば「化物語」だが、この作品も声優の演技には相当こだわっていることが推測される。

まあ、私がこの作品を気に入ったことは、OPとEDを観てもらったほうがより伝わるかも。正しいB級のあり方だと思います(ちなみにOPのカバー元は知りませんでした。さすがに年代がずれてます)




















パンティ&ストッキングwithガーターベルト
素人的大雑把さでいうと、アメリカで人気だったパフィーのアニメをタランティーノが作ったらこうなりそう。カートゥーンみたいな子供向けアニメでありながらシモネタ満載、毒満載。普段から健康を気にしてポテトチップを食べないとかコーラは飲むとしてもゼロカロリーみたいな人には全く受け付けないジャンクなアニメ。それでいて、セリフでわざと英語から無理やり和訳したような言葉選びをしたり、洋邦の映画ドラマから昔の特撮ネタまで入れるなどのこだわりもみられる(といってもマニアックすぎないので、知識がなくても笑える)

あと、OPがたった30秒という潔さ(0:25で一瞬挟まるスローモーションのカットは笑うところ)と、ED曲のせつなさも昭和のバカボン41歳の春だからみたいで良い具合。

















SPEC

これは1話切り。アニメと違って、ドラマは1話がダメでも徐々に良くなっていくことがあると思うけど、これを毎週、しかも1時間も観続ける自信はない。

役者については加瀬亮と椎名詰平が出てること以外特に思うことはないし、ストーリーはSF的でありながらSFファンの目線にはおそらく耐えられないレベルであるが、そもそもこのドラマのポイントはそこになく、売りは「演出」のみと考えてよい。良く言えば豪快。悪く言えば乱暴。その破天荒な感じがロックっぽくてお前好みだろと言われそうだが、むしろ逆。

私は演出の何たるかも知らないのでSPECが雑だとは思ってても言いませんが、少なくとも宣伝文句にいう「新感覚」があるとは全く思えない。あの注射器の前フリがモロバレすぎて、そのモロバレ加減を笑い飛ばすのが正しい見方だとか言われちゃったら、もう何も返す言葉がない。

例えば、上で述べたシャフトとか京都アニメーションなんかは、つまらない原作も丁寧な演出によって鑑賞に堪えうる作品に仕上げることで定評があるわけだけど、SPECの場合、戸田の役柄を中心に奇抜であることそれ自体に意味を見出しているだけに思えて仕方がない(アニメとドラマで「演出」の定義が違うみたいだけどその辺はご勘弁を)
リアリティからの逸脱という点ではアニメ以上に確信犯的。そこをどう評価するか。

私はドラマの主役は役者とストーリーであって演出は脇役でしかないと思うのだけど、どうなのでしょうか。犯人が真顔で二世議員批判してるのとか見て、まだそこなの~?ってあくびが出ましたけどね。

という個人的見解抜きにしても、日本のドラマが「新感覚」を提示することを期待される時代ではなくなっているのではないなかあと。






















ねこばん







やってくれましたTVK。


伊武雅刀がかわいい猫さんたちとたわむれるだけのドラマです。以上言うことなし。













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絶対誰も気づかないと思いますがdeathは不吉なので改名。
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