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~語るべきことなど何もないのに~
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思ってはいないが、さすがに2009年後半のリアリティが北川景子のニーソというのは若干古かったかもしれない。






古いとまでは言えないが、新しいわけでもない。






が、そういう微妙な線を突いてしまうところがまさに私の年代のリアリティ















ということにしておこう。



まあもう、新しい古いなんてのは物事の判断基準としてそれこそ古くなってしまっているので、



「これは新しいから○」






とか





「これは古いから×」





などと言ってしまう評論家は全く信用しない
ことにしているのだけどそれはさておき。





つい先日朝のニュースでみるに、最近は女性の間で森ガールなるライフスタイルが流行しつつあるらしい。

よくわからないがどうも、勝ち負けにこだわらないでまったり(死語)過ごすことで、このストレス社会を生き伸びていくとかなんとか。その生き方と彼女たちのファッションスタイルとがあいまって、まるで森の中で暮らしているかのようだから森ガール、なんだそうです。最初はまさか森泉みたいな人たちかと思ったら正反対の意味だった。














まあ、いいよ。うん。否定しない。



ちょっと前に流行ったアラフォーやアラサーという言葉は、形式的には単なる40歳周辺、30歳周辺を意味するにもかかわらず、じつのところその年代で勝てなかった、つまり負け組の人を正当化ないし勇気づけるための言葉として生まれたものだったわけで。
それが自分にあてはまると感じた人間は、自分が負けていることを客観的にわかっているフリをする。アラフォーアラサーという言葉を使って自分を自虐的に演出することによって、本当はまだ負けていないかのような雰囲気を醸し出そうとする。要は取り繕ってる。







そのあり方が、きっと痛々しくて見てられなかったのだろう。



森ガールというのは、そんなアラフォー、アラサー世代の痛々しさを見たアラウンド20代の、まだ「ガール」と呼んでもかろうじて怒られなさそうな人たちが、あらかじめ勝ち負けの中に身を置かないことで豊かな人生を送ろうという思想の表れなのかもしれない。アラトゥエンティとか言いにくいしね。




きっと私も、はたから見てると痛々しいのだろうなと思う。痛々しいと他人に思われるのが、怖くないと言えば嘘になる。しかし、どうも最近、人から痛々しいと思われることに慣れたというか正直それどころでないので、その「それどころでない」限りにおいてどうでもよいと思うようになった。いやゴメン、単に麻痺しただけかも知れない。




他人が勝ち負けの論理に乗るかどうかについて私が何か言う気はないし資格もない。むしろ、勝ち負けとか狭いことで悩むよりは、森で暮らしたほうが豊かな人生であると思う。ご自由にやっていただきたい。人と勝ち負けの定義を議論するとケンカになるだけだしね。



だが、私はその論理から降りる気はない。これから具体的にどのような選択をするにせよ、そこは変わらないと思う。






だから、音楽であれアニメであれ、勝ち負けの論理に乗った表現だけを選び取ってきたし、これからもそうする。ぬるい表現に触れてしまうと、自分もいつの間にかずぶずぶ降りてしまいそうで、それが何よりも怖い。









抽象的な話で、事情のわからない人にはわからないだろうけど、書き始めた当初のオチはこうではなかった。


なんでこんな流れになってしまったかというと、書いている途中でプラネテスの「イグニッション」の回を見たから。



プラネテスはいいですよ。大人こそが観るべき作品。毎回染みるんですが、今回は特にねぇ。






というわけで、明日の昼はつけあつ(大)。血圧なんて気にしません。





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TBSがスパサカの質問に関して岡田監督に謝罪?







する必要ねえよ











いきなりスイマセン忘れてください。





てことで化物語、するがモンキー其ノ弐にて。



スポーツ少女である神原駿河がスパッツの下に下着を穿いていないのではないか、との問いに対して、神原が




○○でもあり××でもある。



○○と思う者には○○であり、



××と思う者には××である。




と答えたのに対し、




そういうセリフがカッコイイのは中学生までだ!






と暦がつっこむシーン。
すごくくだらなくて笑えるのだけど、それを見たとき、さりげなく的確かつユーモラスにエヴァ批判をやってみせたのではないかと思った。



そう感じた理由は面倒なので省くけど、さすがに自分でも考えすぎというか気のせいだろうと。



しかし、
最終回、つばさキャット其ノ弐の中盤。




暦とそのカノジョ戦場ヶ原ひたぎの父が会話する静かで暖かなシーン。



かつて怪異に取り憑かれたひたぎを救ったことについて礼を言う父に、暦がたまたまその場に立ち会っただけだと謙遜する。
それに対して父が、



それでいいんだよ。

必要なときにそこにいてくれたという事実は、ただそれだけのことで何にもましてありがたいことだ。

僕は役目を果たせなかった父親だ。

僕はあの子が必要としてくれているときに、そこにいることができなかった。







シンプルだが、非常に染みるセリフだった。



今現在、個人的に違う角度から痛切に感じることがあるのだけどそれはさておき、


このセリフを碇ゲンドウ役の立木文彦に言わせたことから、先の気のせいは気のせいなんかではなく、かなり的確な認識だったのではないかと感じるに至った。
エヴァ批判というよりはむしろ、10年前のエヴァを咀嚼したうえでのオマージュであり、西尾維新あるいは新房昭之なりの回答だったのかも知れないと。




そのセリフのどこが10年前のロボットアニメに対する回答なんだと思うだろうけど、逆に、それが回答になってしまうとすれば、10年前のエヴァは(敵を倒して世界平和みたいな)ロボットアニメの文脈から外れた作品だったとも考えられないだろうか。


その文脈から外れてアニヲタ以外の人間にも訴えかけるものがあったからこそ、10年経ってもエヴァエヴァ騒がれるような作品になりえたのではないだろうか。









何を言ってるんだかワケわかんねえだろ?
(ゴー☆ジャス風に)










ここは考えすぎということではなく、柔軟さで対応していただきたい。
・・・といっても理解はできないでしょう。私自身説明が足りないと思います。
しかし、これ以上説明しようとするとただの自分語りに堕してしまうので、この辺りでやめておくわけです。



てことで10年後のエヴァンゲリヲンに話を戻すと、新劇場版は、庵野監督が10年前の自分、あるいは自分に関わった全ての人間に対して、現時点における正解、回答、とりあえずの結論を語るための手段として位置づけられる。

もちろん、きっかけは大人の事情(会社の金儲け)だろう。しかし、大人の表現者は、その大きな金儲けの渦の中で、きちんと正解を語る(アニメ界でそうやって結果を出してきたのが宮﨑駿であり、結果を出せなかったのが押井守。どちらが優れているとは言えないが、なんにせよ庵野は前者に続くことを義務付けられているといっていいだろう。)


新劇場版の「序」と「破」で、10年前のエヴァはほぼ壊されたといえる。そして、今後リリース予定の新劇場版「Q」と「?」で、いよいよ新しく正解を語られるということである。「破」まで見た限り、その予感、気概は感じられた。


庵野は答えが先に決まっていてそこに向かってプロセスを語る人ではなく、その場その場で悩んで進むタイプらしいので、結果はおそらく誰にも予想がつかない。コンビニやスーパーのお弁当が安くて美味いにもほどがあるこのご時世、こんな不安定な表現者にはなかなかお目にかかれない。成功するかもしれないし失敗するかもしれない。しかし、





成功だと思う者には成功であり、


失敗だと思う者には失敗である













・・・では済まされませんのです。




2009年の今で言えば、化物語の回答はかなりイイ線を突いていると思う。これ以上の正解を提示できるのか、庵野に課せられたハードルは相当に高い。このハードルを飛び越えるのか倒すのか、いずれにしろ観ている側は非常に興味深いのであります。
























アニメについて語るとき、常に





アニヲタ=キモイ




という図式を念頭に置いて、今自分はどのヘンにいるのかを意識している。


最近、真性アニヲタではなく、比較的ノーマルなアニヲタが増えているとか聞いたことがある。そんなものは、負け組男子の悲しい言い訳でしかないとは思いつつ、もしかしたら自分もその1人なのか。まだそのエリアにとどまれているつもりなのだけれど。




アニメが好きな男性というのは、ほぼ例外なく女性を見る目がいやらしいと思ってまず間違いない。


アニメが好きな男性というのは、ほぼ例外なく女性の魅力へのこだわりが強いと思ってまず間違いない。



その私が一例として挙げるに、ツンデレがある。これは何が良くて流行ったのか、何が萌えの対象なのかを考えてみるに、女性がツンな状態がかわいいのでもなければ、デレの状態がかわいいのでもない。いや、かわいいのかもしれない。
しかしツンデレがアニヲタ文化の中でほぼ普遍的な価値観に位置づけられた理由は、じつはそこではない。ツンからデレに変化する過程が良いのである。点ではなく線である。





今日は走ってますがついてこれるだろうか。








さらに言えば、女の子の制服や大きな胸や下着そのものがエロイのではない。いや、エロイのかもしれない。しかし本当にエロイのは、それが脱がされる過程である。おっぱいそのものがエロイのではない。いや、(ry





ここで思うに、かわいいも萌えもひっくるめてまとめてエロスに含めてしまうと、エロスは点ではなく線であると思う。
私が最近のアニメを支持する理由の1つは、そこをきちんと理解していると思える作品がチラホラ観られるから(ていうか、これってアニメ特有の価値観じゃない気がするけど)


たしかに、私の言う「点」しか表現しない作品も多いだろうし、需要がある限りそこで商売すべきだとは思うが、その中に埋もれてひとくくりで片付けられてしまうのがもったいない作品は、意外とある。ま、埋もれたところでアニヲタ以外誰も困らないのだろうけれど。


やや過激な前フリが長くなったが、こういう目でこの化物語を観るに、たしかにアニヲタ=キモイと言わざるを得ない。少なくとも観ている側よりも作っている側の人間のほうが数倍キモイ。誤解をおそれつつ言えば、変態。もちろんこれは、表現者に対する最大級の賛辞のつもり。




化物語とは、草食系イケメン高校生である主人公阿良々木暦(アララギコヨミ)が、化物(怪異)に取り憑かれた女の子5人を救うお話。
作品は女の子ごとに5部構成からなるのだけど、それぞれが最初は表面的な人格でおちゃらけたかと思うと、そこから内面の傷(怪異に撮り憑かれる原因)に至るまで丁寧に、それこそ身も心も裸にするかのように語っていく。おそらくこれが、ごく普通な中年男子一般のエロのたしなみ方なのだろう。パンチラがないからエロじゃない」とか真顔で主張したりしてるようだからアニヲタは馬鹿にされてるんだってことにいい加減気づいてほしいけどまあ無理だろうな。



しかし化物語となると、その5人の女の子はみんなほぼ家族との間に問題を抱えている。そのキャラと同じ境遇にいる人間の立場から道徳的にみれば許しがたいことではあるが、そうでない人間からすれば、傷が深ければ深いほど(ry そこまで行くと完全に変態。





私がじゃありませんよ。西尾維新(原作者)と新房昭之(監督)が、です。って言い過ぎか。




最初はアングラ劇団風なマニアックな会話劇かと鼻につきかけたが、徐々にその言葉遊びが女の子の核に直結してくる構造に気づき、次第に引きこまれるようになった。言葉をおろそかにしない物語。真面目な言葉遊び。あまり詳しく説明する気はないけど、例えばタイトルの化物語が化物と物語がくっついた造語、というだけなら、まあそうですかと思うとして、それが英語(ghostory)にしても成り立つ言葉であることからすると、果たしてどこまで計算されているのか想像もつかない。恐るべし西尾維新(これもNISIOISIN)。






本当はキャラごとに用意されたOPとEDのアニソンにしては高すぎるアレンジセンスとか語りたいこともあるけどもう夜も遅いし面倒だからまとめると、アニメはこうやって女の子をかわいく表現することに日夜こだわり続けているのに、なぜテレビドラマじゃ北川景子にミニスカで黒のニーソを穿かせるくらいのこともできないんだってこと。







おい三次元!


本気出せよ!(修造風に)










・・・いや、この際、点と線の話は忘れて欲しい。私が悪かった。
でもね、こだわって欲しいですよ。どーせみんな変態なんだから。

過剰なものを見たい。過剰なら、不快でもなんでもいい。

というのは自分だけかもしれない。そうであるなら、せめて時代のリアリティとつながる範囲で過剰でいて欲しい。それが2009年現在は北川景子にミニスカニーソなんです。そんな大したことじゃないと思いますけどね。






てことで寝ます。

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絶対誰も気づかないと思いますがdeathは不吉なので改名。
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