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~語るべきことなど何もないのに~
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えー



あけまして

おめでとうございます。



生きてます。


最近どんどん文章が雑になってきてますが、今年もニヤニヤ読む感じで相変わらずお付き合いください。

てことで2012年のアニメで語っておくべき作品について、軽くではありますが触れておきたいと思います。







Fate/Zero

「アニメなのに○○」という意外性や付加価値が、自分がアニメを語る上でのお約束になっている感がある。そんな中、魔術でサーヴァントを召喚してバトルをさせるという、いかにもアニメな設定、世界観。

しかしその「いかにもアニメ」とは、つまり裏を返せば「アニメの王道」ということ。アニメでなければできないことを正面から追及した結果、アニメファン以外の鑑賞に耐えうる普遍性をも獲得してしまった幸運な作品。

才能のある人間が集まってやりたいようにやれる理想的な環境が整っていたのだろう。そうなれば、萌えだのエロだのと余分な「要素」に頼る必要もない。練りに練られた表現1つ1つの必然性と劇中の戦士たちが戦う必然性とが融合している。その迫力に、ただただ圧倒された。







氷菓
我々が暮らしている日常はすべて奇跡の連続でできているのであって、それをいかに感動的に演出するか。


それが夢もへったくれもない時代に生きる我々に対する有効なエンターテイメントのあり方であって、私の知る限り、「ハルヒ」以降の京都アニ作品はこの路線で一貫している。その意味で、京アニがこの地味な原作をチョイスしたのはごく自然な流れといえるだろう。



とはいえ、アニメ作品の題材としては著しく地味。誰が死ぬわけでもなく、未完の映画の殺人事件の犯人は誰かとか、あるいは高校の文化祭でキャンドルやおたまが盗まれたとか。これを推理モノと呼んでいいのか?というと悩まないではない。

しかし、こういった地味な事件の奥に隠れた人間模様を深く丁寧に解きほぐしていく主人公の思考過程に、「本当に面白い推理モノとはこういうものだ」という強いこだわりを看て取れる。



心理描写の細かさ、人間関係の描き方の鋭さ、脚本の緻密さはここ数年のアニメ作品の中でも群を抜いている。途中「このくだり必要かなあ?」と疑問に思うこともあったが、それらはすべて文化祭の中で気持ち良く回収されていく。まるで、バラバラなパズルが思わぬ展開で組みあがっていくのを観ているようだった。お見事としか言い様がない。






ヨルムンガンド
数年前に放送された「ガンダムOO」は、武力による戦争の根絶というテーマに挑みながら、いつの間にか別のテーマにすり替わっていった。それを当時の私は駄作だなんだとかなり罵ったものだったが、今思えば、ガンダムシリーズという大ヒットコンテンツの中で論じ切るにはあまりにハードルが高すぎたのだなあと同情しないでもない。奇しくも(?)そのダブルオーの脚本を書いた黒田洋介氏が、本作の脚本を手がけている。

 

その流れを踏まえて本作の評価すべき点をいうと、この世から戦争を「根絶できない」という現実的な認識を前提としていることだろう。その上で、戦争を「減らす」ことができるか否かを問題提起し、そのための方法(「ヨルムンガンド」システムによる地球の全制空権支配)も提示した。


フィクション業界的には特に目新しい発想ではない。かといってヨルムンガンドが現実に可能だとも思わない(むしろ主人公ココのように巨大な富と知性と武力を持つ武器商人でなければ、ヨルムンガンド「ですら」作れないのかという暗澹たる気持ちにさせられる。)


しかし、平和憲法だの外交努力だの未だにお花畑の真ん中で思考停止している輩の意見に比べれば、本作は100倍有効な思考実験になると思う。燃料、水などの資源問題は今後一層激化する。そこで我々は、「戦争」と「武器」と「人間」の関係について、もう少し考える必要があるのかもしれない。
 

そんな重いテーマもありつつ、最先端の武器兵器を駆使したクールな戦闘シーンも満載。エンターテイメント作品としても文句なし。

 





中二病でも恋がしたい!
老人になっても恋をすると良い、老化防止になるといった話をよく聞く。「失楽園」などで知られる作家渡辺淳一氏も、御年80歳になられてもなお恋をしているとテレビで言っていた。


以前は、こういうことを言って若い娘にちょっかいを出すエロ爺ほどしょーもないものはないと思っていたが、いざ自分もある程度の年齢を重ねてくると、このまま老いて死んで行くという「現実」を意識したりするようになる。老人であれ中年であれ「恋」をするということは、不可避な「現実」と戦って生き延びるための手段なのではないか?





・・・という気もしないではない。




老人の話はさておき。本作の主人公は中二病の女子高生。最初はただの萌え系とも思われたが、そこはやはり京アニ。後半からのシリアス路線でグイグイと持ってかれた。

父の死という現実を受け容れるために「中二病」を卒業し、勇太から離れて家族と暮らす決意をした六花。そんな彼女に対し、葛藤の末最終回に勇太が言い放った言葉は、「好き」でも「お前と一緒にいたい」でもなかった。

あえて一言一句の再現ではなく要約すれば、「一緒に現実と戦おう」。まさか「恋」にそんなカッコいい意味もあったとは!いい年こいて恥ずかしながらも目から鱗。


中年として、高校生同士の甘く切ない恋愛物語を観てニヤニヤするのもいいけど、一生懸命現実に抗ってる若者の物語を見て、襟を正すのもいいんじゃないかと思うわけです。

あと関係ないけどモリサマ最高。

 





ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q

エンドロールで宇多田ヒカルの新曲が流れていたが、正直どんな曲だったか印象がない。それはべつに宇多田がアーティストとしてもう終わったからだと言いたいのではない。むしろその逆。

この時代の空気を吸い上げたポップス(≒AKB的なモノ)を作ることが、ここ数年でどんどん難しくなっていることの現れであって、宇多田がアーティストとして終わっていないからこそ、今歌うべき歌を見つけられないでいる。
赤の他人の素人が断定してどれだけの説得力があるのか我ながら疑問なしとしないが、実際彼女のリリースは一時期に比べてないに等しい。宇多田なら過去の遺産をアレンジして食いつぶすのも簡単だろうに、それをしない。


この問題は宇多田固有のものではなく、世界中のアーティストと呼ばれる人すべてが直面している。もちろん庵野監督も例外ではない。では庵野はエヴァを食いつぶしているのか?
昔のテレビ版と旧劇場版のときは吸って吐き出した空気の質量が膨大すぎたため、思惑を大きく超えて時代のうねりにまで発展してしまったわけだけど、新劇場版はどうなのか?



少年が友達を作っては失い、人を信じては裏切られる、そうやって大人に成長していく。ごくごく普通に我々が体験してきたような物語であることに変わりはない。ただ、昔に比べて吸い上げるべきものが少ないため、その物語をベースとした、シンプルなエンターテイメント作品としてまとめることができている、というのが前作「破」までの印象だった。


そして本作「Q」は、少なくとも現在の邦画の中では特A級の映像作品であることに間違いはない。

じゃあ話の中身は?





というと、わからない。


 

しかしそれはつまらないという意味ではない。
例えると、「今ってどんな時代ですかね?」と突然問われたときについ答えてしまう「わからない」に似ている。
これから良くなるような気もするし、悪くなるような気もする。わからない。


つまり庵野は、ちゃんと時代の空気を吸って「Q」を作っている。それを踏まえた上で我々はカヲル君の
「希望は残っているよ。どんな時にもね」
という言葉の意味を噛み締めるべきなのである。


インタビューなどで庵野監督の人となりを知っている人ならわかることだが、商売上の理由だけで作品が作れるほど生き方が器用な人間では決してない。器用だったら、そもそもテレビ版のラストはありえない。でもあの不器用なラストだからこそ、その奥にある誠実さを信じられるのではないか。

そんな不器用な人間から語られるであろう「希望」が一体どんなものなのか、今から次回作が気になって仕方がないのである。











 

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絶対誰も気づかないと思いますがdeathは不吉なので改名。
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