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昨今、学校でのいじめが深刻化している(らしい)。
文科省のHPにも、「学校におけるいじめ問題に関する基本的認識と取組のポイント」の総論として以下のような記述がある。
いじめの防止等は、全ての学校・教職員が自らの問題として切実に受け止め、徹底して取り組むべき重要な課題である。
いじめをなくすため、まずは、日頃から、個に応じたわかりやすい授業を行うとともに、深い児童生徒理解に立ち、生徒指導の充実を図り、児童生徒が楽しく学びつつ、いきいきとした学校生活を送れるようにしていくことが重要である。
また、いじめを含め、児童生徒の様々な問題行動等への対応については、早期発見・早期対応を旨とした対応の充実を図る必要があり、関係機関との連携を図りつつ、問題を抱える児童生徒一人一人に応じた指導・支援を、積極的に進めていく必要がある。
役所コトバのせいかわからないが、酷く滑稽な内容に読めるのは私だけだろうか。
とりあえず正しいことが書いてあるのは争わない。
私がいじめられた子供やその親の気持ちのわからないロクデナシであることも然り。
ただその、そんな弱っちい感じでいじめによる悲劇は止まると本気で思ってるので?
今「弱っちい」って言ったのは子供がじゃなくて大人が、ですよ。
子供がいじめに遭っていないか常に目を光らせる?
果たしてそんな過保護が、大人のやることなのだろうか。
子供も、そんな過保護を大人に求めているのだろうか。
過保護を全否定はしないが、私なら別のアプローチを採る。
先週話題にした「ぼくらの」に出てきた少年少女たちは、それぞれに家庭の事情がある。
その事情の大半は、大人の弱さに起因している。
私が彼らに同情するのは、ロボットで戦わされて死ぬことよりも、家庭の事情のほうである。
私の同情をよそに子供たちは、ろくでもない日常の中にたった1つ残されているかもしれない、大事なものを守るために戦っている。
その強くて儚くて美しい子供たちのありようを描いたところが他と一線を画している所以であって、「ぼくらの」を子供が死んで悲しいお話だなんて捉えるのは見当違いも甚だしい。
日曜深夜に1人で何熱くなってんだって話ですが。
子供は、今の大人たちが思っているほど弱くはない。
だから、「ぼくらの」の子供たちが死ぬとわかってても勇敢に戦う姿は、あれはあれでリアルに映った。
最後のパイロットがウシロくんか関(防衛省の役人)か決める際、
関が殴ってでもウシロを止めなかったことはリアリティがないかもしれないが、大人の弱さと子どもの強さを象徴するリアルな場面だったと思う。
ウシロくんは戦う理由について、
今まで妹にひどいことをしてきたから、償いとして妹を守るために戦いたい。
と言った。
子供に「償い」とか言われたら、大人はもう泣くしかあるまい。
なのに関や養親の飲み込みの良さは正直どうかと思うが(笑)、それはさておき。
子供らしい、強くて素敵な理由だと思う。
自戒を込めて言うが今の大人は弱い。
そんな大人たちがいじめ問題に関してできることは、
君たちはもうすぐ、いやもうすでに戦いの場にいるんだ
と教えてあげることくらいだろう。
身の護り方まで教えてやれれば申し分ない。
その教えに説得力を持たせるためには、自分自身が力強い生き様を見せてやる必要があるのだけど、それもなかなか難しい時代だなと思うわけです。
とりあえずこんな感じでいかがでしょうか。
ある日突然、地球に巨大ロボットが襲ってくる。
これに対抗すべく、主人公もまた巨大ロボットに乗って戦う。
いわゆるロボットアニメ(特に昭和期)の第1話は、概ねこんな始まり方をする。
乗るかどうかであまり悩まない。多少の悩みはあっても克服して次に進む。
そこを物語の全編にわたって悩み続けた珍しい作品が、エヴァンゲリオンだった。
「子どもがロボットに乗って戦う」という設定の異常さを浮き彫りにしたことが作品のリアリティ、迫力を生み出した1つの要因ではないか、と私は勝手に考えている。
と、エヴァの話は前フリとしてさらにこんな話がある。
①自分がロボットに乗らなければ地球が滅びる。
②自分がロボットに乗っても負けたら死ぬし、地球も滅びる。
③自分がロボットに乗って勝っても必ず死ぬが、地球は助かる。
①②まではまだいいとしても③は意味不明。どんだけ罰ゲームなのかと。
2007年に放送されたアニメ「ぼくらの」は、そういう作品だった。
少年少女がロボットに乗って戦うことの異常さ
そこにある程度重点を置くことが、エヴァ以降のロボットアニメの正義であるはずと思っていた私は、「ぼくらの」に少し違和感を覚えてしまった。
主人公である子どもたち15人は、第1話でパイロットにさせられ、回を追うごとに1人ずつ戦って死んでいく。
設定上、パイロットをやめることができない。
乗らない選択肢がないので、シンジ君のように乗るかどうか悩みようがない。
しかし果たして。
子どもは、死ぬとわかっててあんな風にすっきり戦う方向に割り切れるものだろうか。「リアリティ」がないのでは?
そんな若干の違和感を抱きつつストーリーの面白さに釣られて最後まで観たのだけど、結局得られた結論は、私が勘違いをしてたということだった。
設定の「リアリティ」と作品の本質としての「リアル」を混同していた。
幼稚な極論で考えてみよう。
例えばこの作品を見て、
「子どもたちが戦って死ぬことを運命づけられてしまうなんてかわいそう!どうせ死ぬなら大人が身代わりになるべきだったのに」
なんてことを思ったとする。ていうか普通の優しい大人なら思うだろう。
それを踏まえてまず第1問。
何歳ならロボットに乗って戦っても良い年齢なのか?「かわいそう」の判断基準に留意しつつ考えなさい。
次に第2問。
あなたならその子どもの身代わりになれるか?あなたとその子は血縁関係ではないものとして考えなさい。
書いてて恥ずかしくなる問いではあるが、我々はつい、こういう根本的な問いから目を逸らしがちである。なんとなく空気で行こうよ的な。
このことは、昔から日本に充満する(?)憲法改正アレルギーと共通の問題点を孕んでいる気もする。
なーんて大風呂敷を広げて置きながら、今宵はこれまで続きはまた次回。
311の後、石原慎太郎東京都知事(当時)が大震災と津波は「人間に対する天罰」との趣旨を「含む」発言をしたところ、不謹慎との批判を受けて直ちに撤回、謝罪したことがあった。
彼には政治家としての側面と作家(表現者)としての側面があって、上記発言は表現者としてのものだったと思うが、しかしタイミングも含め、政治家としては激しくアウトだった。
ま、そこが良くも悪くも石原慎太郎らしいというか、そういう人物なのだとは思う。
それはさておき先日「エヴァQ」のブルーレイがリリースされ、その中に同時上映の「巨神兵東京に現る」も収録されていた。
巨神兵とは、宮崎駿監督の「風の谷のナウシカ」に登場する巨大な人造人間のこと。殺戮兵器として最終戦争、いわゆる「火の七日間」で世界を滅ぼした、という設定。
ここでの巨神兵は物質文明の象徴、つまりは現代人の驕りを象徴していた。そこに警告を発するのが宮崎駿のライフワークであり、ナウシカからもののけ姫までの宮崎作品の核であったことは言わずもがな。
そのナウシカで巨神兵パートの原画を担当していたのが庵野秀明。
その彼が30年後に特撮作品で巨神兵を蘇らせ、現代版(?)「火の七日間」を再現した。時間にしてものの10分。東京どころか世界の全てが焼き尽くされてしまう。
「ナウシカ版」との違いは、巨神兵は人間が作り出した殺戮兵器ではなく、圧倒的な力を持った神であること。
人間が調子に乗った天「罰」としてではなく、世界が生まれ変わるプログラムとしての天「災」。
善人にも悪人にも平等に無慈悲な絶対的「力」として描かれている。
ナウシカが映画になった1980年代半ばはまだ冷戦構造下で、「戦争はやめましょう」、「核兵器は廃絶しましょう」と人間同士の話だけしていればとりあえずは足りた(もちろん環境問題は当時もあったけど)。人間が己を戒めることで地球の自然も保たれる、なんていう幻想があったといってもいい。
しかし今では、人間対自然との関係をもっと深刻に考えなければならなってきている。311の地震、原発の問題を経て危機感が急速に加速している。正しく生きようが生きなかろうが関係ない。
巨神兵の設定の違いの中に、そういう時代背景の違いが見てとれる。
「巨神兵東京に現る」では、地球はおろか太陽や月も壊してしまうのだから救いのなさは最上級。そう、救いは「ない」。
しかしだからといって、何かあったら諦めろということではない。
作品の最後に語られる結論は、神の意思とか運命とかそんなものは全部無視してとにかく逃げて生き延びろってただそれだけ。これってネガティブを突き抜けた究極のポジティブではないだろうか。
ま、基本的に期待はしないけど救いがあったらあったで儲けもの、と思っておけばいいんでない?っていきなり軽くなっちゃったけど(笑)、今日はとりあえずこんな感じで。
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