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~語るべきことなど何もないのに~
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ある日突然、地球に巨大ロボットが襲ってくる。

これに対抗すべく、主人公もまた巨大ロボットに乗って戦う。





いわゆるロボットアニメ(特に昭和期)の第1話は、概ねこんな始まり方をする。



乗るかどうかであまり悩まない。多少の悩みはあっても克服して次に進む。



そこを物語の全編にわたって悩み続けた珍しい作品が、エヴァンゲリオンだった。




「子どもがロボットに乗って戦う」という設定の異常さを浮き彫りにしたことが作品のリアリティ、迫力を生み出した1つの要因ではないか、と私は勝手に考えている。




と、エヴァの話は前フリとしてさらにこんな話がある。








①自分がロボットに乗らなければ地球が滅びる。


②自分がロボットに乗っても負けたら死ぬし、地球も滅びる。


③自分がロボットに乗って勝っても必ず死ぬが、地球は助かる。






①②まではまだいいとしても③は意味不明。どんだけ罰ゲームなのかと。


2007年に放送されたアニメ「ぼくらの」は、そういう作品だった。








少年少女がロボットに乗って戦うことの異常さ




そこにある程度重点を置くことが、エヴァ以降のロボットアニメの正義であるはずと思っていた私は、「ぼくらの」に少し違和感を覚えてしまった。





主人公である子どもたち15人は、第1話でパイロットにさせられ、回を追うごとに1人ずつ戦って死んでいく。


設定上、パイロットをやめることができない。

乗らない選択肢がないので、シンジ君のように乗るかどうか悩みようがない。









しかし果たして。


子どもは、死ぬとわかっててあんな風にすっきり戦う方向に割り切れるものだろうか。「リアリティ」がないのでは?









そんな若干の違和感を抱きつつストーリーの面白さに釣られて最後まで観たのだけど、結局得られた結論は、私が勘違いをしてたということだった。


設定の「リアリティ」と作品の本質としての「リアル」を混同していた。









幼稚な極論で考えてみよう。





例えばこの作品を見て、



「子どもたちが戦って死ぬことを運命づけられてしまうなんてかわいそう!どうせ死ぬなら大人が身代わりになるべきだったのに」



なんてことを思ったとする。ていうか普通の優しい大人なら思うだろう。







それを踏まえてまず第1問。






何歳ならロボットに乗って戦っても良い年齢なのか?「かわいそう」の判断基準に留意しつつ考えなさい。








次に第2問。






あなたならその子どもの身代わりになれるか?あなたとその子は血縁関係ではないものとして考えなさい。












書いてて恥ずかしくなる問いではあるが、我々はつい、こういう根本的な問いから目を逸らしがちである。なんとなく空気で行こうよ的な。

このことは、昔から日本に充満する(?)憲法改正アレルギーと共通の問題点を孕んでいる気もする。






なーんて大風呂敷を広げて置きながら、今宵はこれまで続きはまた次回。














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絶対誰も気づかないと思いますがdeathは不吉なので改名。
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