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「アウトレイジビヨンド」を観て、改めて北野武のあり方こそが本来の映画監督、というかアーティストの理想的なあり方だと思った。
非常に大雑把にみて、「たけし映画」には2パターンある。
1.自分が撮りたい映画であって海外ではなんとなく評価されるも、日本じゃ客が入らないもの。
2.自分が撮りたい映画を撮るために、日本でも客が入りそうなもの。
言うまでもなく、アウトレイジとその続編ビヨンドも後者として製作された。
こんな分類、別に「たけし映画」に限らないんじゃないか?と思うかもしれないが、
このご時世、売れないとわかってて映画を撮らせてもらえる映画監督が果たして日本に何人いるか。
想像してみるだけでも、たけしがいかに特別な地位にあるかがわかる。
最近そこそこ客の入る面白い映画が増えたみたいだけど、そんなのばかり並べられてもどこか不自由な感じはしないだろうか。映画って本当はもっと無駄で、もっとくだらなくて、もっと自由で、観た後あれこれ考えこんでしまうようなものではなかったか。不自由な感じがしたその瞬間、それはアートではなくなる。
「たけし映画」に2パターンあるとして、売るための映画であるビヨンドが「たけし映画」を語るのに足りないか?というと全くそんなことはない。むしろアーティストであり、エンターテイナーでもあるたけしのバランス感覚がよく表れている。
ビヨンドは、前作で自分の組を壊滅させられたヤクザの元組長大友の復讐劇。
キャストが異様に豪華(これもたけしの名前あってこそ)であることを除き、ストーリーはいたってシンプル。
山王会にたてつく気力をなくした大友が、どのようにして復讐を決意し、どのようにして復讐の準備をするのか。シンプルではあるが、そのプロセスがちゃんと論理的に論証されている。
そして復讐するとなったら後はもう、
銃!
銃!!
銃ーーー!!!
ですよ(ハァハァ
国の政治にまで勢力を拡大したという「山王会がそんな脆くていいのか???」という疑問を置いてけぼりにして、とにかく殺して殺して殺しまくる。とにかく見境なく殺しまくるので、「勢い余って今味方も殺さなかった?裏切ったんだっけ?」とかストーリーの整合性を考えるヒマも与えられない。
高音と低音の双方をマックスに強調された銃声がそれまで構築してきた「意味」を吹き飛ばし、加速度的に観る者の脳内をかき乱していく(ストーリー内には○○○で脳をかき乱されちゃったのもいたけどw)。
緻密に作り上げたものをぶっ壊す瞬間。
そこに何かしらを感じられるかどうか。アートってそういうことなのでは?
たけしがアートを脳と結びつけて理解していることは、昔から平成教育委員会とかコマ大数学科などの番組をやる一方、誰でもピカソなどのバラエティをやっていることにも表れている。
映画通の人が映画の知識だけでビヨンドを見れば、おそらく酷評かそれにも値しないとの評価を下すかもしれない。
しかし一段上に上がってアートとして見れば、右脳と左脳の両方をバランス良く刺激する極々まっとうな芸術作品であることに気づくはず。
センスの善し悪しとかではなく、俯瞰で物事を見れるか否かの問題。
北野武の魅力がこれに尽きるものでないことはもちろんであるが、その才能の偉大さを理解するには、「アーティストとしての映画監督」であるという総論部分を踏まえることが必要ではないかと。
ビヨンドは、そのことを知るために非常に有用な作品と考えるわけですが、まあ今私が書いたことは正直どうでもいい話です。
小難しい話抜きに楽しめる映画でした。
とはいえ、肝心な内容については言い足りないところもありますんで、それはそれでまた別の機会に。
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