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かつて80年代の女性アイドルの人気を松田聖子と二分した中森明菜。アイドルとしてデビューするも、すぐに女王と呼ぶにふさわしい貫禄を身に付けていた。上の動画でも分かるとおり、たった1人ステージに立つだけでその空間をガラッと変えてしまう圧倒的なオーラ。今でいう「歌姫」みたいな安っぽいものではなかった。wikiからの引用ではあるが、
「デビューからほどなく、衣装・メイク・振り付けを自身で担当、楽曲製作においても積極的に自身の意見を取り入れていき、歌唱表現力(特に圧倒的なロングトーンは“明菜ビブラート”と呼ばれている)にも磨きをかけ、作家のジャンルや有名無名にとらわれない楽曲提供を受けるなど、独自の世界を切り開いてい」ったとも評されている。
そもそも「歌謡曲」とか「ポップス」なるものは、酸いも甘いも噛み分けたオッサンの作った歌を、何も考えていないフレッシュな若者に歌わせて金儲けしようという本質的に安っぽいものである。そう考えると、活動の場はポップスだったが、中森明菜はアーティストとして位置づけて語るべき人物だったといえる。
自分の望むように表現活動をしながら、同時に大衆のニーズを引き受ける器であり続けた歌手はその後にも現れているが、明菜の場合、その器の大きさがケタ違いだった(当時の空気を知っている者なら大体同意してもらえると思う)。
明菜にとって80年代は、自分の求めたものと大衆の求めるものを大部分で合致させられた、幸福な時代だったのではないだろうか。
しかし、である。
「中森明菜」という本名で活動するアーティストが、時代から求められる幸福を味わった後どうなってしまったか。
ここで彼女のシングルを並べてみると、
スローモーション(1982年) |
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結構な数がリリースされているが、私は見事に90年代以降の曲を知らなかった。
加えて下世話な話をすると、明菜は80年代の終わりに、恋人だったマッチのマンションで自殺未遂事件を起こしている(先週思い出した)。
裏事情がどうであるかとか、明菜が人格的にどうであるとかに興味はないが、時代の移り変わりにシンクロすることでかけられていた魔法が解けたような彼女の人生は、良くも悪くも80年代の歌謡曲を体現してしまったのかもしれないと思う。
もし「中森明菜」が芸名であったならば、マッチから求められなくなった(?)、あるいは時代から求められなくなったという衝撃をいくらか緩和できたかもしれない。しかし本名であるがゆえに、その衝撃をダイレクトに受け止めざるを得なかったのではないだろうか。そうだとすると、手首くらい切っても不思議はないように思えてくる。
ときに彼女を痛い人物であるかのように語るものも見られたが、それは彼女が直面した衝撃の凄まじさに思いを致してからにすべきだろう。
80年代アイドルだった人たちの大体は、今は家庭を持って子供を育てながらテレビにも出たりして、それなりに幸せそうにみえる。そんな中、中森明菜は90年代以降も細々とシングルをリリースし続けてきた。自分に欠落したものを感じる限り、それを埋めるべく表現し続けるのがアーティストだとすれば、そういう意味でも中森明菜はアーティストに位置づけて語るべき人物なのである。
そんな彼女だが、今年体調不良により活動を休止したとのこと。そりゃあね、体調もおかしくなるでしょうよ。わかるよ。普通はなる。他人に決して理解できない「疲れ」というものは、確かにある。だから全盛期に戻れとはいえないけど、でもナイナイ岡村みたいに復活して欲しいな。この感覚は決して私個人だけではなく、この00年代終盤という時代の空気であると思いたい。
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