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~語るべきことなど何もないのに~
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1位:四畳半神話大系

閉塞感なんてものはまさに字の如く感覚の問題でしかない。であるにもかかわらず、あたかも「閉塞感」と看板のついた建物に住んでしまう。それがつまり、本作の主人公「私」が下宿する下鴨幽水荘の「四畳半」の部屋に当たる。

「私」も最初は薔薇色のキャンパスライフを夢見てあれこれやった。が、どれもうまくいかない。だったら最初から何もしないと四畳半に引きこもり、出られなくなる。どうやって出るか答えは簡単、外に出ればよい。しかし出た先はまた同じ四畳半。出ても出ても永遠に続く四畳半。


答えがわかっているのに出られない。出られなくても、魚肉ハンバーグとカステラとコーヒーがどの四畳半にもあるから飢え死にすることはない。死ぬことで部屋を出たほうがマシに思えるのは私だけだろうか。どこかで聞いた話のような気がしてならない。




「私」は当然最後には脱出するのだけど、そりゃそうなれば脱出するだろうなあというものだった。でもいい。何も奇をてらう必要はない。「私」はその程度のことができなかった。それだけのこと。


抽象的な言い方になるが、重要なのは答えが何であるかを知ること(教えてもらうこと)ではなく、答えに向かって自分の足で歩くことそれ自体なのだろう。こうやってわざわざ書くのも恥ずかしくなるくらい普遍的なお話であるし、今こそ重要であると実感させられる2010年のお話でもあった。




君には絶対に薔薇色のキャンパスライフは送れない。



私が保証しよう。

なぜなら人生は愚鈍な色に満ちているからだ。



と真理を語る樋口師匠のお言葉が素晴らしい。このネガティブなようで何気にポジティブなお言葉と、OP曲「迷子犬と雨のビート」が私の中で非常に良くマッチする。






本作をして、2010年のリアリティを最も的確に切り取るものである、と客観的に観ることのできない私が言ったところで説得力はないだろう。ただ、自分にとって大事な作品が文学、音楽、映像と各ジャンルの優秀な才能が集まる場であった(音楽だけでもOPがアジカン、EDはやくしまるえつこ、砂原良徳、いしわたり淳治と最強すぎる)ことにより、今まですごしてきた無駄な人生にも何かしら意味を感じざるを得なかった。

 


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第1話でこの角度で「約束ですよ」と言われた時点ですぐにデートに誘うべきだった、というのが正解












2位:機動戦士ガンダムUC

最近「大人のアニメ」とかいう言葉を目にするようになった。私としてはいい歳してアニメなんて恥じるべきと思っているので、安易に自分の恥部を正当化することは厳に避けたいところであるが。

この平和な日本に住むほとんどの人は、8月の終戦記念日以外に「戦争」について意識する機会すらないだろう。そんな我々にとってガンダムを観ることは、8月以外でも戦争について微量ながらも考えるきっかけとなり得る数少ない機会といってもいい。ガンダムがリアルロボットアニメーションなどと呼ばれてきたゆえんでもある。


しかし下品なことを言えば、ガンダムは昔から戦争を口当たり良く語ることによって、プラモデルを売りつけるための商売アニメでもあった。私たちの上の上(さらにその上?)の世代が零戦や戦艦大和の模型をありがたがるのと似ているかもしれない。戦争を知らない世代の我々が戦場のロマンに思いを馳せる。ユニコーンは、ダブルオーでは満足できない我々の世代のために作られたガンダムらしいガンダムといえる。


本作はテレビ放送ではなくOVA全6巻リリース予定で現在はまだ2巻だが、この段階ですでに名作と呼ばれることが約束されているといっていい。第1話「ユニコーンの日」は、いかに緻密に作られた美しい作品であるかを秒単位で解説したいくらいだし、第2話「赤い彗星」はモビルスーツ同士の戦闘だけでなく人間同士の(会話による)戦闘も緊迫感があって素晴らしかった。


原作者福井氏がこだわったというユニコーンのビーム音は、初代ガンダムのそれと似ているが全く同じではない。その音の中には、ユニコーンが初代からZ、逆シャアの流れを汲む正統派であるという宣言に加え、新しいガンダムを作るという気概も込められている。



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ここで昇天します




今さらガンダム?というのは確かにそのとおり。でもただの後ろ向きな懐古趣味じゃない。前に進みたい人にとっては、あのビーム音から始まる何かがあるはず。












3位:けいおん!!

自称ロック好きでかつインターネットを嗜んでる人間なら、まず100パー観ていると思って間違いない。にもかかわらず、今さら「けいおんってなんか流行ってたらしいですね~」などと白々しいセリフを吐く奴が許せない。そういう卑怯者に対しては、罰として「けいおん最高!」と人前で言う刑を科すべきであると思う。







それはさておき。



昨年放送された「けいおん!」(第1期)について京都アニメーションは、大ヒット作「ハルヒ」の第2期の前座と位置づけていたと推測される。ところが前座がメインアクトを食ってしまったことを受けて、今年は「けいおん!!」(第2期)としてメインに昇格。第1期の倍の2クール分に増量してDVDorブルーレイにサントラも売ったるぜ的な雰囲気を感じて少々心配だったが、観終わってみれば、見事メインアクトとしての責務を果たしたといっていい。



ネタの密度という意味では「!!」は「!」よりも薄まったことは否定できないが、「!」の濃さを考えれば「!!」はちょうど良かったし、むしろそのゆるさに、本作の魅力を最大限に際立たせる効果があったと思う。



私が「けいおん」をとにかく評価したいのは、ロックやアニメを変に背負ったりせず、ポップスとして引き受けた点である。

つまり、ロックに対する深い知識がありながらそれをひけらかしたり無駄にリアルな演奏シーンを再現して技術をアピールするわけでもない。もっと萌え萌えさせたり微エロにしてアニヲタを喜ばせることもできるが、それをしない。

マニアを排除することによって、なんとなく音楽が好きな人となんとなくアニメが好きな人が集まりやすい場所、楽しい雰囲気を作りにこだわっていた(「雰囲気アニメ」と揶揄されることがあるが、それは揶揄になっていない)




結果、「けいおん!」が普段アニメを観ない人にも認知されたり親子で観る人がいたり巷でギターを担いだ女子高生がちらほらみられたのは、まさにポップスとして機能したからである。「けいおん!」の懐の広さこそがポップスの王道ではないだろうか。




ああいう純粋でかわいらしい女子高生像みたいなのはアニヲタ好みな非実在青少年かもしれない。しかし、劇中で彼女たちが送った何気ない日常は、かつて私たちも経験したことのあるリアルなものだった。
思い返してみれば、私たちも高校生のときは唯のようにただ「暑い~」と言いながらウダウダしたり、今では考えられないほど寒いギャグを言ったりしていた。そんな私たちが唯たち放課後ティータイムのメンバーと2クールもの間ダラダラ過ごしたからこそ、最後の学園祭ライブは楽しかったし、その後の部室では大泣きしてしまうのである。




あー。もっと褒めるべきところがあるけど最後に1つだけ好きなシーンをいうと、第10話の結婚式。deathdevilのライブで新郎がロックとかあまり興味ない感じなのに、新婦と一緒に楽しもうとがんばってる1コマ。






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細かいけどこういうシーンって音楽に対する愛情が深い人でないと絶対思いつかない。だから「けいおん最高!」なんですよ。言っちゃったし。



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新郎新婦の前で孤高のブルースを鳴らすさわ子













4位:パンティ&ストッキングwithガーターベルト


セックス&バイオレンスを最高の作画と最高の音楽と最高のセンスと最高にオタクな知識を駆使してアニメにすると、このPSGになる。




主人公である2人の天使の名前が、アナーキー・パンティとアナーキー・ストッキング。

「アナーキー」と「穴あき」をかけるネーミングセンスからしてすでに濃い。さらにガチホモ神父のガーターベルトや不死身のチャック兄貴といった濃すぎるキャラが加わり縦横無尽に暴れる様は、ロックンロールを通り越してパンクですらある。

今ロックをやってる人たちはこれよりロックなことをできるのだろうか。漫画の帯に推薦文なんぞを寄せてる場合か?








絶対2期をやってくれなきゃ困るファッキンビッチなバッドエンドも含めて全てが最高としか言い様がないが、詳しい人によるとto be continuedとまで言ったのに投げっぱなしにするのがガイナックスらしいから恐ろしい(値段も見ずにブルーレイとサントラをレジに持ってったら「1万2千円です」とか言われてホント恐ろしい)




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不死身のチャック兄貴



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&変態神父




m-floのTAKUを中心に作られたサントラのカッコよさも発売前からすでに折り紙つき。しいてダメな点を挙げれば、聴いているうちに音楽と映像を同時に楽しんだ方がさらに得であることに気づいてしまうことだろうか。


私にとってハズレのエピソードはないけれど、放送第1回の「仁義なき排泄」の変身シーン、「デスレース2010」のスピード感、第6回「悪魔のような女たち」のザ・アニメっぷりは間違いなくここ数年のアニメの中で最高峰。じゃあなんで4位なんだって話はさておきこれを観てもアソコがウンともスンともこない人は、生きながらにして死んでいる可能性がありますのでご注意を。





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俺はもう何も言うことないよガイナックスさん・・・










位:閃光のナイトレイド

第二次大戦前の満州を舞台に、「能力」を持った者たちで構成された日本の特務組織「櫻井機関」が大活躍・・・というのはアニメ的見地からすると非常に地味であり、他方で、歴史物としては超能力者が出てくる時点でトンデモ系・・・と両方の畑からスルーされてしまった感のある隠れた良作。

歴史物とエンターテイメント作品のバランスをとろうとしてどっちつかずに映ってしまったのが非常に残念である。せめてもうちょっとマシなタイトルがあれば・・・と思わなくもない。




大枠をいうと、欧米列強の帝国主義に対抗すべく、日本陸軍の一部隊が植民地の指導者たちと連携して最終戦争をしかけようと原爆を開発し、それを超能力者たちが阻止しようとするお話。実際このくだりは石原莞爾の「最終戦争論」をベースにしたフィクションとノンフィクションの境界ギリギリの過激な設定であり、中にはテレビ放送できずに総集編に差し替えられたエピソードもあったとか。




ほんの10年くらい前までは、「何故日本が戦争に突入したか」と問題提起するだけで太平洋戦争の美化につながるといって言論が封殺されてきた。それが2010年の今、完全な形ではなかったにせよ、公の場で太平洋戦争の時代の日本と世界のありようを相対化して論じることができるようになった。そういう意味ではいい時代になったし、ある意味大変な時代になったとも思う(放送時はなぜ今太平洋戦争?と思ったが、最近の東アジア情勢をみるとあながち時代錯誤なテーマとは言い切れない)


地味であることを恐れずに丁寧かつ挑戦的に作られた作品。応援する意味でも第5位。



声優に英語だけでなく中国語までしゃべらせるこだわりをスルーして声優の1人がセリフ棒読みとかもうね、批判の仕方がトンチンカンなアニヲタが未だに多いという意味ではまだまだいい時代とはいえないけど。



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雪菜様は令嬢なので棒の方がむしろ良いのです











6位:デュラララ!!

簡単にいうと2010年度版「池袋ウエストゲートパーク」。

10年前にドラマをやってた頃の池袋は、フィクションとわかりつつもカラーギャングを見かけたらどうしようみたいな軽いワクワク感があった気がする。

しかし最近の池袋には、そういう錯覚すら感じられない。

それは、大衆の意識や情報が集まり、発信される場所が池袋などの「街」とか「ストリート」といった現実的な空間から「インターネット」という仮想空間に重点が移行したことによるのではないだろうか。カラーギャングがいるかもと思えば怖いが、携帯をいじっているだけの無色透明な若者たち(本作でいう「ダラーズ」)がいるかもと思ってもドキドキするのは難しい。

今リアルな表現をしようと思ったら携帯やパソコンにまつわる描写にはこだわるべきところ、デュラララは携帯でつながる若者たちを描くことでドラマIWGPのリアリティを引き継いだのだと思う。




そのこと自体を評価してもしょうがないので何がリアルかもう少し具体的にいうと、デュラララは、社会で世渡りしていくためには現実世界では表面的に上手にやり過ごし、仮想空間では本当の自分をさらけ出すというバランスの取り方をする若者が増えてきている状況をきちんと踏まえている。その上で、現実世界とネット世界のズレをさまざまな人間模様を交錯させながら集約させる展開が見事だった。



さらに興味深いのは、折原臨也(&中の人である神谷浩史)という情報屋の存在である。臨也の問題提起を乱暴に要約すると、ヒトという種族は本能のレベルでは戦争したくてしょうがない、戦争をしてこそヒトは天国に行けると考えている。なのになんで携帯電話で仲良くしているの?本当は大して仲良くなんかないのにさ(笑)ということである。



ストーリー上その問題提起はクリアされないまま、臨也をちょっと痛い目に合わせるというごまかしで終わってしまい、個人的には若干物足りない。その問題提起をもって答えとして納得すべきなのかもしれないが、でも首なしライダーを実在する妖精として位置づけたり神話のくだりまで出してフィクションを強調したんだから、やっぱりもうちょっと先まで語ってくれよとは思いましたけどね。2クール分あったんだし。

















7位:学園黙示録
Highschool Of The Dead

平和な日常が突如、無数のゾンビがあふれる世界に変わるというベッタベタな設定。

主人公とともに逃げる3人の女子高生たちは無駄にスタイルが良く、無駄にでかい胸を揺らし、無駄にパンチラをし、みな主人公に欲情する。主人公は当然イケメンで、友達のブサメン軍オタ君は無数のゾンビ相手にヘッドショットを決め続ける超一流のスナイパー。設定から何からリアリティを欠くこと甚だしく、パッと見ズバリ下品ですらある。


しかし、そうやって批判する前提そのものに間違いがある。

いつの間にアニメはお上品にリアリティを追求する表現ジャンルに成り上がったのかと。自分がアニメを観ることを正当化したいがために「最近のアニメは結構リアルでさ~」などと御託を並べる必要はない。アニメは昔からリアリティを欠いてきたし、そうであるがゆえに、逆にリアリティ、物事の本質を突くことのできる表現手段だったのである。


この学園黙示録HOTDは、


男なら


大きい○っぱいが

グラングラン揺れたら



嬉しいだろ?



という男の本能として至極当然なリアルを叩きつけてくる。リアリティ云々言うなら、観る側もその胸や尻から目を背けてはならない。




またこの作品が面白いのは、そのエロさの反社会性である。

たとえば女子高生にして剣の達人である毒島冴子は、ゾンビを殺していくうちに徐々に自らの本能的欲求に気づき始め、ついにはゾンビの頭を吹き飛ばしながら悦びの声を上げる。私は女でないから冴子の悦びが女性一般に妥当するリアルなのかはわからない。しかしああやって女性が本能を解放してメスになっていく様子は、その辺のパンチラアニメでは適わない本質的なエロさをまとっている。




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今年ぶっちぎりのベストカット







暴力衝動と性的衝動を合体させて肯定的に描いている点では、犯罪を助長するおそれのある「反社会的」な表現ともいえる。しかし、およそ表現が「力」を持とうというときは、反社会的な表現との限界に向き合わざるを得ない。


人が本能的に反社会性を持った社会的な動物だとすれば、人の本能と向き合わなければ本質的なことは語れない。





本質的なことを語れなければ、その表現に説得力は生まれない。




昔何かのアニメでおばあさんが「良い魔法に力を与えるためには悪い魔法も知らなければならない」と言ったのは、そういうことではないだろうか。



話を戻すと、HOTDの持つダイナミズムとか反社会性はかつてロックの専売特許であり、そして今のロックが失っているもののように思えてならない。そう思って監督のインタビューを読んでみるに、「乳の揺れ方にはとにかくこだわった」という本物の馬鹿。

しかしこのくだらなさは、表現者として圧倒的に正しい。

















8位:それでも町は廻っている
 

目に見えないものを「存在する」と断定するのが論理的でないのと同様に、目に見えないものを「存在しない」と断定することも論理的とはいえない。そういう当たり前のことをわかっている人には面白いが、そうでない人の目にはただのグダグダアニメに映るかもしれない。


私も最初は日常のグダグダ感をシャフトの演出でみせるだけの作品かと思っていたが、途中から宇宙人や未来人に死後の世界などといった非日常的要素を登場させて同じようにグダグダ感を持たせたりして、見たことのない変化球を投げられた感じだった。この作品は原作が強いので、演出をああだこうだと語る必要もない。





普通は「科学的である」ということと「論理的である」ということは一致する。

しかし、科学的には説明できなくても論理的に説明できることはいくらでもある。



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例えば第3話「目」の中で歩鳥が数学教師森脇をからかう様子は、つまり原作者が「科学的=論理的」と考える人たちを挑発しようという本作品の目的そのものともみえる。歩鳥が(科学としての)数学は苦手だが(論理的に考える)探偵推理小説が大好きという設定は、そういう意味である。そう考えるとこの一見バラバラなストーリーは、日常非日常を問わず論理的に説明しようとする一貫した作品として見ることができる。




おそらく原作者の頭の中では、論理的に説明可能という意味では日常と非日常とであまり大差がなく、境界があまりはっきりしていないのだろう。その感覚が、「それ町」の独特な世界観の根本にあると思われる。俺の嫁タッツンの活躍があまり多くなかったのは残念だが、この独特な世界、というか町は歩鳥を中心に廻っているのだから仕方のないことではある。








 









9位:Peeping Life

あるあるネタ系の脱力ショートコントアニメ。気の短い私にとって、1本10分以内で終わってくれるのは非常にありがたい。無駄な会話しかないけど無駄は1つもないというすごさ。

とんねるずの細かすぎて伝わらないモノマネが大好きな人には高確率でヒットするだろうが、そうでない人には全くつまらないどころか怒りさえ覚えるであろう作品(実際、私はDVDを貸した人に怒られた)。それくらい、マニアックさのレベルにおいて、アニメに限らず漫画お笑い等全ての表現ジャンル中で現在の最高峰といっていい。

アドリブを多用するということなのでプレスコ録音になるのは当然理解できるのだけど、そのアドリブがどこからどこまでなのか、どれほどの計算の上でなされているのか全く想像できない。監督兼声優としてオタク君を演じる森りょういち氏が無駄にイケメンなのも私の理解を超えている。













10位:さらい屋五葉

時代劇といってもセクシー美女が圧倒的な強さで敵をなぎ倒すわけではなく、かといって実写ドラマのように「いかにも」な人情物でもない。メチャメチャカッコいいわけではないが、さらりとカッコいい。ものすごく泣けるわけでもないが、さらりと泣ける。このオノ・ナツメ特有の語り口は、日本酒でいうぬる燗であって熱燗ではない。大人にしかわからない味。

 














【以下、観たけど圏外】

アマガミSS
いわゆるギャルゲー原作のキモヲタ御用達アニメ。主人公橘クンが色んなキャラの女の子と仲良くなるだけのお話。1人辺り4話で最後に告白されたりキスされたりすると、リセットされて他の女の子という構成。恋愛三角関係になって欝展開とかにはならず、ただボーっとしているだけで女の子が主人公に好意を寄せてくる。

原作がゲームのせいなのかわからないが、ストーリーのポイントとポイントの間の論理的なつながりが弱く短絡的にみえる。ゲームだったら「やさしくする」と「叱る」の分岐があって悩むのだろうけど、アニメだといきなり橘クンと女の子がもつれて転んで気がついたら保健室だったり図書室で2人きりになったりとかまあ、見方によっては笑えるけど。

製作者はおそらくリアリティの「リ」の字も考えていない。なぜなら、本作品の目的は、草食男子(生来的及び意に反して後天的に草食にならざるを得なくなった者を含む)の魂の救済であって、そのためには中途半端なリアリティは不要どころかジャマだからである。

今はまだキモヲタ専用でも、こういう発想の恋愛補完商品が出回る流れは今後加速していくだろうと思う。女性と比べて男性は現実逃避が得意中の得意ですからね。魂の救済まで話を広げたらそれこそ絶対需要はなくならないでしょう。私にはアマガミSSはぬるすぎて全部は観れなかったけど、だからといって二次元好きな人をかわいそうとも思わないし軽蔑する気もない。うまくは言えませんが、タバコをやめられない人が酒をやめられない人を馬鹿にする資格はないということですかね。まあ、そんなゆとりがないだけかも。





荒川アンダーザブリッジ
中村光のシュール系ギャグマンガ。内容面だけで言えば私の好みではなかったが、おそらくマンガ好きの人には広く受け入れられそう。

シャフト作品というと映像面の演出に焦点を当てて語られることが多いが、私が今まで観た限りでは、声優の演技を含む音声面へのこだわりのほうがむしろ気になる。例えば本作の登場人物のほとんどは主役、準主役クラスの声優であり、このことだけでも、本作を成功させるためには是非とも実力派の声優で固める必要であるというシャフト側の熱いこだわりを感じるし、声優陣もそれに応えてか、俺が私がといわんばかりにシュールキャラを熱演している。彼らに振り回される主人公リクルート役が神谷浩史だったのは単に今一番モテる声優だったからではなく、強者たちと渡り合えるのは彼の他にいないからである。

私としては「この内容的にあまり面白くない作品にここまで熱くなれる人たち」という光景が最もシュールに感じられて楽しかった、というのはものすごく皮肉に聞こえるかもしれないけど、でも2クール分全話観られたのは、結局なんだかんだ言って目が離せない作品だったということである。

あと、1期と2期をやればOPもEDも別のアーティストに代えるのが通常であるところ、本作はOPにやくしまるえつこ、EDにスネオヘアーを一貫して起用。ここにもシャフトのこだわりを感じる。実際2人の曲は本作の世界観にこれ以上ないくらいにフィットしている。私がシャフト作品を信じられるのは、ここが一番大きい。





Angel Beats!
けいおん!がロックを扱っておきながらあまりロックを背負っていないのと比べて、このAngel Beats!はアニメの側からもろにロックを背負って音楽業界に殴りこみをかけようとした点では評価したいし、一応それなりの結果は出したようである。

しかし肝心の本編の出来はというと、話にまとまりがなくただ泣かせたいだけというか、単に商売のために麻枝准の才能をよってたかってしゃぶりつくしただけで神谷浩史の熱演がなければどうなっていたことかと思うものだった。でもOP曲と沢城がボーカルの「Crow Song」だけは何度も聴いてしまって複雑な気分ではある。





俺の妹がこんなにかわいいわけがない
アキバ文化に対する愛情とそれに裏付けられた批判的な文脈を作品中に散りばめることで、表現の強度を上げていこうとする気概を強く感じた。話の流れが原作を知らない者にとってはぶつ切りに感じられるところが多々あるが、それはおそらくやりたいことがもっとたくさんあったのに事情により詰め込みきれなかったからだろうと推測する。

まさにタイトルが示すとおり、「こんな設定は現実にありっこない」というツッコミを作品内に組み込むことで逆にリアリティを獲得しようとする手法。そういう意味では「涼宮ハルヒの憂鬱」のフォロワー的作品として位置づけられると思う。

しかし、「妹がかわいい」、「妹がツンデレ」まではまだ許せるとして、「妹がエロゲ好き」、「妹が妹萌え」という非現実的設定に対する切り込みは物足りなかった。ただ個性的であることそれ自体に意味を見出すことに意味はあるのだろうか。その点に対する自己批判をストーリー中に落としこんだまでは良かったが、そこでとどまってしまっていた。

他にも、第5話で桐乃の「知らないよあんなキモイ連中」というセリフとその後の黒猫の脳内リフレインを使い分ける演出はすごく染みたしOP曲「irony」のキラキラ感も素晴らしかったし他にも部分的に良い点はあるのだけど、トータルでは厳しかった。






ジャイアントキリング
原作の魅力が選手や監督同士のやりとりや内面の描写にある以上、アニメでその魅力を活かそうとすると、試合外のエピソードや試合中のスローモーションが多用されてアニメ作品としての魅力がなくなる。逆にアニメ作品としての魅力を出そうとすると、内面の描写が難しくなる。

この矛盾をどう解消してくれるのか見ものだと思っていたら、普通に前者のパターンで作られていた。良くも悪くもNHKアニメ。ジャイアントキリングの面白さを評価してたなら作る前から気づいて欲しい、ていうか私も観る前に気づくべきだった。





世紀末オカルト学院
なぜ2010年の今に1999年のノストラダムスをテーマにするのか、というのはわからないではない。21世紀になったけど世界は大丈夫だったじゃん、みたいな気の抜けた感じが支配するこのご時世。何かを物語ろうとするにあたって、世紀末の緊迫感が再び欲しかったのだと思う。

仮にそうだったとして、その目論見は成功したようには見えなかった。10年前のパワーを利用するのは結構だけど、昔を懐かしむのに10年前ではまだ早いと思う。難しいところだけど。

 

 











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