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少しだけ寛容な心でイメージしてみて欲しいのですが、
少年がロボットに乗って戦争をするって異常
ですよね。言うまでもない当然の話で申し訳ないですけど、従来のロボットアニメは、それを子供の憧れとして位置づけていたわけで。平和を守るためという大義名分、美名、ていうかそもそもアニメだし、という乱暴な理由で、その異常な価値観が正当化されてきた(そこに最初にメスを入れたのが富野ガンダムだったが、ニュータイプ概念もまた同様に乱暴な正当化理論であって、結果アムロとシャアにカリスマ性を与えただけだった。)。
その乱暴な理由を否定して、原則論に戻したのが10年前のエヴァンゲリオンだった。主人公碇シンジは、ひたすら自分がエヴァに乗る理由を通じて自分の存在価値を最後まで自問自答し続けた。良く言えば丁寧であり、誠実だったが、悪く言えばうざったく、暑苦しかった。だから、この時点で受け付けず脱落する人もかなりいた。
ここを我慢して観たとしても、庵野監督は、最後に明確な答えを提示できなかった。ストーリーの整合性を放棄してまで一応の答えを出したのだが、それがうまく伝わらなかった(私はテレビ版の25、26話で綺麗に完結したと思ってたけどその辺の解釈は省略)。しかし、当時90年代というのは、世界レベルでも社会レベルでも個人レベルでも正解がないことを気づかされた時代だったのだから、一応の答えしか出せないしそれがうまく伝わらないのもやむを得なかったと今では思う。なんせ、正解がないのだから正解を根拠付ける理由も証拠もない。
90年代は、バブルの崩壊に始まって14歳による凶悪犯罪や宗教団体によるテロ等々、価値観の多様化と崩壊が同時進行し始めた時代だった。簡単に言うと、例えば「人を殺して何が悪い?」という14歳の問いに対して、社会や大人が、明確な答えを提示できないことに気づいたのである。法律で禁じられているからとか形式的な答えではなくて、哲学的な答えを用意できなかった。私たちが恐怖したのは、それら具体的な事件の残忍さというより、事件の奥に潜む問題点(正解のなさ)ではなかっただろうか。自分や周りの人間が人殺しをする理由がなければ、しない理由もない。なんと怖い話。
今はそんな屁理屈にかまっている場合じゃないのでとりあえず現状をやりすごしているが、90年代はそういうふわふわした時代だった。その時代の空気を、あらゆる表現ジャンルの中で唯一真面目にすくい取り切り込んでいったのがエヴァだった。エヴァが当時の社会現象にまでなった原因は、そこにあるとしか思えないです。
なので以上を一言で言うと、
10年前のエヴァの特徴は
正解のなさと向き合ったこと。
ではないかと。
その正解のなさに耐えられない人は、エヴァをヒステリックに叩くか、逆に自分に都合の良い解釈を込めたり、あるいは歪めてアナザーストーリーに自ら引き篭もったりした。
幸い、私は正解のなさに耐えられたというか元々いい加減な性分なので、あまりエヴァの迷路にハマッた感じではない(・・・つもり)。どちらかというと、エヴァの内容以上にエヴァに対する人々の反応を見るのを楽しんでいた。25話26話がクソだとか叩いてる人を見ては、影で嘲笑うみたいな心根の腐りきった人間。こんな私に比べて、庵野監督は非常に真面目に、愚直に、正解のなさに耐えられない人と正面から向き合った。その結果がテレビ版の後の2本の映画であり、最後のアスカのセリフだった。
エヴァはオタク批判であると言われるしその通りだけど、それもオタクと向き合ってこそ。ホントに嫌いなら相手にしないか、私みたいにニヤニヤ笑ってるだけでしょ。まあもしかしたら、個人的なレベルで自分自身と向き合ってただけなのに、たまたま普遍性を獲得してしまっただけなのかもしれないけれど。
とにかく死海文書だとか聖書とか人類補完計画とかねえ・・・そんなのはどーだってよかったんですよ。意味ありげに語って正解を語るフリをした庵野監督にも否はあるかもしれませんが、それらの投げっぱなしの伏線は監督の照れ隠しというか、要は先に述べたとおり、エヴァという作品は単にシンジがエヴァに乗る理由、自分の存在意義を自問自答するためだけのお話であって、それ以外はオマケのファンサービスだったんです。ミサト姐さんが毎回予告で「次回もサービスサービスゥ」って言ってたのはそーゆーことなんです(もちろん嘘)。
ということで、次回は10年後にエヴァを作り直す理由についてです(すでに前フリが効きまくってる気もするけど)。
ウシですこんばんわ。
てことでやっと観てきました。
さっそくですが1回目を観終わった感想をエヴァ風に一言で言うと、
10年待った甲斐があった(のかもしれない)な・・・。
どこがエヴァ風なのかというともちろん、カッコで括った部分。そんなことはエヴァに詳しい皆さんにとって蛇足かなと思いましたが、一応ね。
ここでエヴァ破をロックに例えるなら、昔メチャクチャやって解散した伝説のバンドが、最近再結成したので観に行ったら演奏がうまくなってたみたいな感じ。
つまり、往年の名曲はすべて演ってくれる。しかも現代風にアレンジされている。ライブ会場には昔からのファンもいれば普段ロックなど縁がない女もたくさんいるが、みんな同じように満足している。要するに、演る側も観る側も、大人になったと。
実際私の知り合いの女子で、アニメは一切観ないのになぜかエヴァ破を観て感動し、過去の作品に遡ったなんて人がいる。
また、私が行った映画館にも女子が結構いたことからしても、エヴァ破が10年前に比べて相当開かれた作品に仕上がっているであろうことが窺えた。
そこで内容を観てみるに、エヴァという作品がもともと持っていた高いエンターテイメント性が、さらにバキバキに上がっていた。そのことは、すでに前作エヴァ序のヤシマ作戦を観た段階で感じ取れたが、本作はその記録を軽く更新している。おそらく、いや確実に、エンターテイメント作品としてこれを超えるロボットアニメはもう出てこない。
もともとロボットアニメというジャンル自体10年前に終わっているのだけど、そもそも終わらせたのが当のエヴァンゲリオン自身であって、10年後のエヴァンゲリヲンが10年前のエヴァンゲリオンを超えたのなら、これ以上のロボットアニメが登場することは、論理的にはあり得るとしても可能性はほとんどないに等しい。
しかし。
今この時点でそう断言できるのは、
あくまで「エンターテイメント作品として」の話。
私が冒頭でカッコ書きを使った意味も、そういうことである。
どういうことか。この作品を語る(楽しむ)ためには、やはり10年前のことを確認しておく必要があると思う。未だに確固たる見解を持っているわけでないので思い切り泥沼にダイブしてしまいそうだけれど、ひとまず試みます。
なんつて(ノ∀`)
というわけで今日のお題はスカイクロラ。
考えてみると、去年はヱヴァンゲリヲンが公開されただけでも十分だったのに、今年はポニョに加えて押井守のスカイクロラまで観られたという意味では贅沢な年だった。そしてポニョが当たり前のようにヒット(公開3日で興行収入100億円突破)を飛ばす一方、スカイクロラは当たり前のように墜落した(興行収入7億円・・・)わけだけど、ま、
それもさもありなんと。
押井映画が難解というのはよく言われる。しかしスカイクロラのようなわかりやすい映画が売れなかったことからすると、それが直接の原因とも考えにくい。たしかに、目玉と言われていた戦闘機同士のドッグファイトも、普段からハリウッド映画を観てる人たちからは取るに足らないものと酷評されてた(でもCG技術云々など専門的なことを抜きにしても、あんな風に生き物のように戦闘機を飛ばせる監督が押井守と宮﨑駿以外にいるのか、と私は思う)。
まあ、ぶっちゃければ押井監督が売れる映画の作り方を知らないだけなんだけど、そういう、売れるためのチープさを持ち合わせていないところが、良くも悪くも押井映画の魅力といえる。メディアの前で宮﨑作品に対する挑発的発言をしたり(お約束のケンカ芸)、笑っていいとものテレホンショッキングに出てまで宣伝しても、まあ売れないだろうなと思っていたし私はそれで全然問題ないと思う(たぶん)。
こんなことを言っているとお前スノッブかみたいな感じになるのでもう少し説明させていただくと、押井作品が売れない理由は、テーマの暑苦しさにあると思う。実際、スカイクロラに関するインタビューで押井監督は、「生きていることを実感できない若者たちに対して言いたいことがある」ということをしきりに強調している。
もともと生の実感というテーマ自体は押井映画(特にパトレイバーや攻殻以降)に共通するものだったが、ただ今までは、生の実感とか自分らしく生きるとか個性とか記号として社会に蔓延する上っ面な価値観に対してそれは本当にリアルなのか?ととことん反証してつぶしていき、何もなくなったその先に本当の生の実感のようなものがあるのではないか、と思わせる逆説的な方法だった。それに対して今回のスカイクロラでは、生の実感とはどういうものかを正面から積極的に証明しようとした点でガラッと変わっている。テレホンショッキングの件はプロデューサー命令があったからだろうけど、映画を観た後では、そこまでしてでも若者に伝えたいという押井の真摯な思いを感じた。
こうした転換のきっかけとなったのは、前作イノセンスの方向性の限界に加えてプライベートの事情が大きかったという。押井監督は自身の愛犬を映画に登場させるなど犬に対する溺愛ぶりは有名で、家庭のことはそっちのけで愛犬のことばかり考えているような人だった。が、愛犬が死んで孤独になり、娘が結婚したことで自分が父であったことを遅まきながら自覚するようになり、そして今では50代半ばにして空手を習い始めて体に血が流れていることを実感しているという(・・・とそれが生の実感かよと思わなくもないが、想像すると泣けてくるw)。そういった事情が作品の作り方に色濃く出たのは、ごくごく自然だったといえる。そう考えると、草薙水素(スイト)の生き方の不器用さに押井監督の不器用さを重ねてみることも可能かもしれない。
スイト役の菊池凛子については芸能人による話題づくりとして批判される向きもあったけど、私には、声優に慣れていない彼女の醸し出す空気は、生きることに慣れていないスイトに意外とマッチしていたと思う。もともと技術的なことが気にならない(わからない)私からすれば、押井監督が気が狂うほどテープを聴いて彼女しかいないと思ったというエピソードとセットでみるとむしろ説得力すら感じる。盲目的な善意解釈と言われればそれまでだけど、感情を閉じ込める無機質なしゃべり方から最後にそれを爆発させるまでの持っていき方なんて私思わず
これが映画なんだよ!
ていうかこれロックでしょ!
って膝を叩きたくなりましたよ(もちろん涙目)。
あと膝を叩きたくなったシーンは、やはり最後にカンナミがティーチャーに向かっていくときのセリフでしょうか。これ以上下手な説明をすると映画の価値を貶めるだけなので控えるけど、そこは映画のテーマと深く関連する部分、かつ作品に深みを持たせているところではないかと。あの字幕のズレはカンヌの観客にはまったく伝わらなかったでしょうね。まあホント、だから押井映画は売れないんだよなあwとホメ言葉的に言いたくなる。実際、売れて欲しくないですよ。売れたら押井映画じゃなくなると思う。本人はいやがるかもしれないけど、10年経ってから絶賛されるような映画であって欲しいです。
といいつつ私は、アニメは宮﨑アニメやガンダム程度なら観るという人には、是非とも押井アニメにも触れてみて欲しいと思うのです。入門編はやはりパトレイバー2でしょう。「それロボットアニメじゃないの?」と侮ることなかれ。とても約15年前の作品とは思えませんです。
・・・てな感じで最後はまくしたてましたが、それにしても今年は押井守と宮﨑駿という2人の巨匠が別段示し合わせたわけでもなくポジティブな作品を発表したことは映画ファンとして喜ばしい反面、それは現実世界の深刻さの裏返しにも思えなくもなくて、その辺で複雑な感じもしたりしているウシでした以上。
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