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~語るべきことなど何もないのに~
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TBSがスパサカの質問に関して岡田監督に謝罪?







する必要ねえよ











いきなりスイマセン忘れてください。





てことで化物語、するがモンキー其ノ弐にて。



スポーツ少女である神原駿河がスパッツの下に下着を穿いていないのではないか、との問いに対して、神原が




○○でもあり××でもある。



○○と思う者には○○であり、



××と思う者には××である。




と答えたのに対し、




そういうセリフがカッコイイのは中学生までだ!






と暦がつっこむシーン。
すごくくだらなくて笑えるのだけど、それを見たとき、さりげなく的確かつユーモラスにエヴァ批判をやってみせたのではないかと思った。



そう感じた理由は面倒なので省くけど、さすがに自分でも考えすぎというか気のせいだろうと。



しかし、
最終回、つばさキャット其ノ弐の中盤。




暦とそのカノジョ戦場ヶ原ひたぎの父が会話する静かで暖かなシーン。



かつて怪異に取り憑かれたひたぎを救ったことについて礼を言う父に、暦がたまたまその場に立ち会っただけだと謙遜する。
それに対して父が、



それでいいんだよ。

必要なときにそこにいてくれたという事実は、ただそれだけのことで何にもましてありがたいことだ。

僕は役目を果たせなかった父親だ。

僕はあの子が必要としてくれているときに、そこにいることができなかった。







シンプルだが、非常に染みるセリフだった。



今現在、個人的に違う角度から痛切に感じることがあるのだけどそれはさておき、


このセリフを碇ゲンドウ役の立木文彦に言わせたことから、先の気のせいは気のせいなんかではなく、かなり的確な認識だったのではないかと感じるに至った。
エヴァ批判というよりはむしろ、10年前のエヴァを咀嚼したうえでのオマージュであり、西尾維新あるいは新房昭之なりの回答だったのかも知れないと。




そのセリフのどこが10年前のロボットアニメに対する回答なんだと思うだろうけど、逆に、それが回答になってしまうとすれば、10年前のエヴァは(敵を倒して世界平和みたいな)ロボットアニメの文脈から外れた作品だったとも考えられないだろうか。


その文脈から外れてアニヲタ以外の人間にも訴えかけるものがあったからこそ、10年経ってもエヴァエヴァ騒がれるような作品になりえたのではないだろうか。









何を言ってるんだかワケわかんねえだろ?
(ゴー☆ジャス風に)










ここは考えすぎということではなく、柔軟さで対応していただきたい。
・・・といっても理解はできないでしょう。私自身説明が足りないと思います。
しかし、これ以上説明しようとするとただの自分語りに堕してしまうので、この辺りでやめておくわけです。



てことで10年後のエヴァンゲリヲンに話を戻すと、新劇場版は、庵野監督が10年前の自分、あるいは自分に関わった全ての人間に対して、現時点における正解、回答、とりあえずの結論を語るための手段として位置づけられる。

もちろん、きっかけは大人の事情(会社の金儲け)だろう。しかし、大人の表現者は、その大きな金儲けの渦の中で、きちんと正解を語る(アニメ界でそうやって結果を出してきたのが宮﨑駿であり、結果を出せなかったのが押井守。どちらが優れているとは言えないが、なんにせよ庵野は前者に続くことを義務付けられているといっていいだろう。)


新劇場版の「序」と「破」で、10年前のエヴァはほぼ壊されたといえる。そして、今後リリース予定の新劇場版「Q」と「?」で、いよいよ新しく正解を語られるということである。「破」まで見た限り、その予感、気概は感じられた。


庵野は答えが先に決まっていてそこに向かってプロセスを語る人ではなく、その場その場で悩んで進むタイプらしいので、結果はおそらく誰にも予想がつかない。コンビニやスーパーのお弁当が安くて美味いにもほどがあるこのご時世、こんな不安定な表現者にはなかなかお目にかかれない。成功するかもしれないし失敗するかもしれない。しかし、





成功だと思う者には成功であり、


失敗だと思う者には失敗である













・・・では済まされませんのです。




2009年の今で言えば、化物語の回答はかなりイイ線を突いていると思う。これ以上の正解を提示できるのか、庵野に課せられたハードルは相当に高い。このハードルを飛び越えるのか倒すのか、いずれにしろ観ている側は非常に興味深いのであります。


















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アニメについて語るとき、常に





アニヲタ=キモイ




という図式を念頭に置いて、今自分はどのヘンにいるのかを意識している。


最近、真性アニヲタではなく、比較的ノーマルなアニヲタが増えているとか聞いたことがある。そんなものは、負け組男子の悲しい言い訳でしかないとは思いつつ、もしかしたら自分もその1人なのか。まだそのエリアにとどまれているつもりなのだけれど。




アニメが好きな男性というのは、ほぼ例外なく女性を見る目がいやらしいと思ってまず間違いない。


アニメが好きな男性というのは、ほぼ例外なく女性の魅力へのこだわりが強いと思ってまず間違いない。



その私が一例として挙げるに、ツンデレがある。これは何が良くて流行ったのか、何が萌えの対象なのかを考えてみるに、女性がツンな状態がかわいいのでもなければ、デレの状態がかわいいのでもない。いや、かわいいのかもしれない。
しかしツンデレがアニヲタ文化の中でほぼ普遍的な価値観に位置づけられた理由は、じつはそこではない。ツンからデレに変化する過程が良いのである。点ではなく線である。





今日は走ってますがついてこれるだろうか。








さらに言えば、女の子の制服や大きな胸や下着そのものがエロイのではない。いや、エロイのかもしれない。しかし本当にエロイのは、それが脱がされる過程である。おっぱいそのものがエロイのではない。いや、(ry





ここで思うに、かわいいも萌えもひっくるめてまとめてエロスに含めてしまうと、エロスは点ではなく線であると思う。
私が最近のアニメを支持する理由の1つは、そこをきちんと理解していると思える作品がチラホラ観られるから(ていうか、これってアニメ特有の価値観じゃない気がするけど)


たしかに、私の言う「点」しか表現しない作品も多いだろうし、需要がある限りそこで商売すべきだとは思うが、その中に埋もれてひとくくりで片付けられてしまうのがもったいない作品は、意外とある。ま、埋もれたところでアニヲタ以外誰も困らないのだろうけれど。


やや過激な前フリが長くなったが、こういう目でこの化物語を観るに、たしかにアニヲタ=キモイと言わざるを得ない。少なくとも観ている側よりも作っている側の人間のほうが数倍キモイ。誤解をおそれつつ言えば、変態。もちろんこれは、表現者に対する最大級の賛辞のつもり。




化物語とは、草食系イケメン高校生である主人公阿良々木暦(アララギコヨミ)が、化物(怪異)に取り憑かれた女の子5人を救うお話。
作品は女の子ごとに5部構成からなるのだけど、それぞれが最初は表面的な人格でおちゃらけたかと思うと、そこから内面の傷(怪異に撮り憑かれる原因)に至るまで丁寧に、それこそ身も心も裸にするかのように語っていく。おそらくこれが、ごく普通な中年男子一般のエロのたしなみ方なのだろう。パンチラがないからエロじゃない」とか真顔で主張したりしてるようだからアニヲタは馬鹿にされてるんだってことにいい加減気づいてほしいけどまあ無理だろうな。



しかし化物語となると、その5人の女の子はみんなほぼ家族との間に問題を抱えている。そのキャラと同じ境遇にいる人間の立場から道徳的にみれば許しがたいことではあるが、そうでない人間からすれば、傷が深ければ深いほど(ry そこまで行くと完全に変態。





私がじゃありませんよ。西尾維新(原作者)と新房昭之(監督)が、です。って言い過ぎか。




最初はアングラ劇団風なマニアックな会話劇かと鼻につきかけたが、徐々にその言葉遊びが女の子の核に直結してくる構造に気づき、次第に引きこまれるようになった。言葉をおろそかにしない物語。真面目な言葉遊び。あまり詳しく説明する気はないけど、例えばタイトルの化物語が化物と物語がくっついた造語、というだけなら、まあそうですかと思うとして、それが英語(ghostory)にしても成り立つ言葉であることからすると、果たしてどこまで計算されているのか想像もつかない。恐るべし西尾維新(これもNISIOISIN)。






本当はキャラごとに用意されたOPとEDのアニソンにしては高すぎるアレンジセンスとか語りたいこともあるけどもう夜も遅いし面倒だからまとめると、アニメはこうやって女の子をかわいく表現することに日夜こだわり続けているのに、なぜテレビドラマじゃ北川景子にミニスカで黒のニーソを穿かせるくらいのこともできないんだってこと。







おい三次元!


本気出せよ!(修造風に)










・・・いや、この際、点と線の話は忘れて欲しい。私が悪かった。
でもね、こだわって欲しいですよ。どーせみんな変態なんだから。

過剰なものを見たい。過剰なら、不快でもなんでもいい。

というのは自分だけかもしれない。そうであるなら、せめて時代のリアリティとつながる範囲で過剰でいて欲しい。それが2009年現在は北川景子にミニスカニーソなんです。そんな大したことじゃないと思いますけどね。






てことで寝ます。








まだなんとなくじんわり暑いですねウシですこんばんわ。












090608P7.jpg



てことで観てきました噂のサマーウォーズ。













あの「時かけ」の監督作品ということもあってか前評判が高く、上映後も新宿のどこの金券ショップに行っても前売り券がない状態(配給規模があまり大きくなかった?)でかなり期待が高まっていたが、裏切られなかった。もしかしたらCGが綺麗なだけのペラペラな映画かもしれないと思っていたが、全然違った。少々大げさに言えば、映画館で観るべき映画を久しぶりに観た気がした。



アニメを普段観る人もそうでない人も、



ネットの知識がある人もそうでない人も、



花札を知ってる人もそうでない人も、



年齢性別問わず楽しめる。エヴァ破も相当間口が広がったけど、こっちのほうが人に勧めやすい。笑いあり涙ありの手に汗握るストーリー展開というありきたりにして非常に大事な、やるべきことをしっかりやっているエンターテイメント作品

ピンチになって、何をすればいいのかわからない。でもあきらめない。とりあえず何かをする。どこに行くかは重要ではなく、とにかくあきらめないことが大事という、アニメが表現すべきことをしっかり表現している。冷静になればハッピーエンドになることはわかりきっているが、そこへの持って行き方が素晴らしいので、冷静にさせてくれない。ていうか熱い。ロッキーほどではないけど、それに準じる熱さかも。



このサマーウォーズが超ドタバタながらもしっかりとした作品に仕上がったのは、タテの関係、つまり家族の描写に力を注いだことが大きかったのではないかと思う。最後に全世界のアバターが連帯する様子(ネット上のヨコのつながり)は、あれだけならハイハイすごい映像ですね程度で終わるけど、栄婆さんと、その下に団結する夏希の家族(タテのつながり)の描写により、迫力が増したように思う。ヨコのつながりが感動的なのは、あくまでタテがしっかりしてのこと。栄婆さんが知り合い1人1人に電話をかけて、「あなたならできる」と繰り返し励ます様子が、非常に印象的だった。ていうか私もあんな婆さんが欲しかった。



もうすぐ2010年になろうとする現在、アニメに限らず、少なくとも表現に迫力、リアリティを込めたければ、家族との関係の描写に力を注ぐのが絶対条件になりつつあると思う。おそらく、そこから逃げた表現は薄っぺらいものとして見向きもされなくなるだろう。そしてそれは、私がロックという音楽ジャンルに飽き飽きしている原因に通じるのではないかと思えてきた。たぶん意外といい線突いていると思うので、後々掘り下げてみます。






というわけでまとめると、



とりあえずサマーウォーズは観といて間違いないから。


迷ったら観るべし。興味があるなら、忙しくても観に行く価値はある。


実際私はありました。


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絶対誰も気づかないと思いますがdeathは不吉なので改名。
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